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総天然色の空想が心を肥やす ~27歳の誕生日に寄せて

 1995/5/15から数えて27年目の誕生日を迎えました。


夢の終わりというものはいつも儚く過ぎ去り、空ノ想像力を後に残す。

 今年も携帯端末の取り扱いで涙を呑むところだった。

 フィルタリングによる閲覧時間の制限がないタブレットやPCからツイッターやYouTubeを見てしまえば徹夜は必定で、去年の今頃と同じく健康と社会生活の維持に苦しんでしまうからである。

 今年のゴールデンウィーク期間中にも危うい瞬間が一度や二度あった。それでもなんとか「一日中スマホ見て夜遅くに寝て過ごす無為なGW」にならずに済んだのは、日帰りの小旅行を提案して朝型の生活リズムの維持に貢献してくれた家族、スマホ廃止を強く提言する医師に対する抵抗と「家庭内の通信環境に口を出される」被虐妄想による恐怖、そして僕が幼い頃から頭に思い浮かべていたという理想郷的幻想へのあきらめ(早い話がお互いの正しさを突きつけ合い、どちらかが完全に沈黙するまで続く規制と人情の板挟みに心底幻滅うんざりしたのだ)などの理由を織り込んで、とりあえず夜ふかしをしない早寝早起きの継続ができている。

 これが薄氷を踏むような頼りない行動選択の連続であることは誰の目にも明らかだ。だからこそ、今はこの生活の維持に全力を傾けたい。

『シン・ウルトラマン』の公開が、2日早い誕生日プレゼントになった。

 初見の感想はふせったーにまとめたが、まずはその情報量に圧倒され、興奮のあまり13日の夜は眠るのに難儀した。

 あえて点数を付けるとすれば加点法で満点ではあるが、減点のポイントも人によっては即刻ゼロ点からマイナスに値する問題なので、あまり手放しでは喜べなかった。

 ウルトラマンと人間の友情を育むための時間が2時間弱ではどうしても足りなかったことや、日本の一都市から宇宙・高次元へ一足飛びにスケールアップしてゆくセカイ系的な手つきなども、評価を落とす点かもしれない。

 それでも期待はしていたし、むしろ期待しすぎて高くしたハードルを岡田斗司夫の推測動画で幾分か低くした上で観たので、このように相反する感情が生まれたのだと思う。

 劇中、ウルトラマンは何度もたった一人の戦いに挑むことになる。

 僕は許されるならその度に「ウルトラマン、がんばれ!」と声援を送りたくなった。

 それは神への他力本願ではない。地球に降着した一人(彼は外星人であり、人間である)の生命をかけた懸命な努力が報われることを信じて、心の向く先を一つにするのである。

 そして僕のような人間はあれほどの献身を一筋にできてしまえるようにはできていないので、泣くのである。

 死を覚悟した戦い、それでも生きたいと思ってしまう。そこに人間の本質を見た。

 いいものを見た、と思う。

 さよならはまた会うためのおまじない。私の好きな言葉です。

(終)

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