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4年前期 東洋史学(水2)オスマン朝12

1571年レパントの海戦
1572年チュニス征服
海戦は「ない」 70年
海上略奪行為が跋扈、間接的攻撃は続く
国同士が宣戦布告しあう戦争はなくなる
1645年~ クレタ戦争で海戦が開戦w

クレタ戦争(1645-69)

プレヴェザ、レパントの短期決戦に比べて長期
大規模

背景
2つの「海賊事件」

オスマン朝 v.s. ヴェネツィア
キプロス占領=ヴェネツィア領キプロスを占領
レパント
東地中海をめぐった覇権争いの戦争

1638年ヴローラ事件

レパントからの休戦を打破
アドリア海沿岸、ヴェネツィアに近い
バルバリア海賊=オスマン朝マグリブ地方
海戦起こしたら艦隊に加わる
アルジェ、チュニスの武装船がアドリア海に来て一隻のヴェネツィア船を拿捕
翌年、同国武装船は北アフリカ→アドリア海(ヴェネツィアの喉元ゆえ、オスマン朝ヴェネツィア間の交易船多し)→オスマン朝港町ヴローラ(当時の航海技術では接岸航法)
オスマン朝の街でかくまわれた→28隻の大艦隊をヴローラに派遣
ヴローラを包囲
城壁に大砲を打ち込む
サファヴィー朝と戦争中にバグダート遠征(ムラト4世も)
反撃困難
バイロ(在イスタンブールヴェネツィア領事)を通してオスマン朝はヴェネツィア(共和政)元首に抗議の信書を送る
・アフドナーメを取りやめ
・再度アフドナーメ違反をした場合開戦の旨

影響
武器製造
テッサロニキ(ギリシア方面)に派兵
国交中断

1644年シュンビュル・アガ事件

背景
(シュンヴュルは花の名前、女性の名前、オスマン朝の後宮宦官長)
罷免され埃及に流罪
普通の商船で埃及へ
家財や召使、馬、メッカのカーディーやメッカへの巡礼者
(海路/陸路で埃及→メッカへ、が主流)
ロードス島通ってキプロス、シリア沿岸
オスマン朝がマムルーク倒してシリア行ったときに、次やるのはロードス島の征服だったわけ

シュンビュル・アガもロードス島にまずは行く
カルパトス島でマルタ騎士団の船が襲撃→シュンビュル・アガ死亡、カーディーも捕虜に→ヴェネツィア領マルタに向かうまでにクレタ島に寄港→メッシーナに行くまでに沈没
(普通はロードス島→キプロス、なぜカルパトス島行ったかは不明)

アフドナーメ「オスマン朝と相手国のどちらにも属さない船がどちらかを攻撃した場合、自分の領土に匿ってはいけない」
ヴェネツィア領クレタに匿ったとも言える
→オスマン朝は怒る
マルタを口実にクレタ島を巡って戦争

疑問
1.シュンビュル・アガは中央から左遷された人物であり重要人物ではない、よくあること。メッカのカーディー、メッカの巡礼者が乗っていたこと
(オスマン朝はメッカの保護者を自認、イスラーム世界の盟主として君臨していた)
2.攻撃者はマルタであってヴェネツィアではない
3.アフドナーメの記載に従っても侵攻するのはおかしい

オスマン朝の進行政策を振り返る
イスタンブール
ロードス→キプロス→クレタを占領
東地中海航路の主な中継地
ロードス島キプロス島よりもクレタのほうがより重要、ヴェネツィアが最後まで持っていた
オスマン朝はクレタをずっと狙っていた、口実が必要だった(条約結んでいるので)
巡礼者の安全が脅かされた
→シュエヒル・イスラームにファトワー出してもらった
(ファトワーで正当化、イスラーム法学者が色んなことを聞かれたときに答える法的見解
(「タバコを吸っていいか?」→ファトワーに照らして合否を決する))
オスマン朝中央政府?
「以前ある地方(クレタ島)がイスラームの家(戦争の家)であって、時が映って異教徒が侵入し、マスジド、マドラサ、ミナレットを異教徒や堕落した儀式を一杯にさせたら、また、異教徒が追いはぎをし、巡礼者の道を損なっていたら、イスラーム全体の要求に応じて異教徒の手から奪ってもよいのか」という問
「神はイスラームと和平を結ぶことはいい。合法とみなされて永続的にまたは一時的に破棄が認められ~ アリーが和平を破棄することを有益とし、ヒジュラから8年目にヒジュラからメッカに至り、解放。神を祝福したまえ。」という答
過去のカリフの行動を根拠に正当化
(キプロス征服のときのファトワーと内容が似通っている、当時もヴェネツィアと和平結んでいた)
アフドナーメを与えている、国の領土を攻撃することを法的に正当としている

キプロス占領と共通する根拠
かつてイスラームの家の一部であったため
オスマン朝と同じイスラーム教徒がキプロスを支配していたという歴史があるから取り戻してよい
クレタ島はキプロス島よりも根拠ある(アッバース朝期の8~9cに占領、10cまで続く)
ムスリムにとって利益でなくなったらファトワーは破棄してよい

島が欲しいだけ

1645年クレタ侵攻

ヨーロッパとの貿易拠点はハニヤ
54日間ハニヤを包囲→制圧
大部分をすぐに征服

キプロスとの違い(なぜヴェネツィアは苦戦したのか)
・事前の領土引き渡し勧告なし
・教皇中心にヨーロッパ側の援軍なかった、神聖同盟Holy League。今回は最初集まらず。サファヴィー朝イラン(敵の敵は味方)とも同盟。ヨーロッパは30年戦争(陸がもめているので海を狙う余地があった)
・シーア派サファヴィー朝イラン、東方へかかりきりから手を引き出した(東方が落ち着いたらから西方との戦争できる)
・旧海洋国家ヴェネツィアの衰退(16c後半に北の英蘭が地中海に参入、ヴェネツィアの地中海交易を圧迫。ヴェネツィアの海軍力の低下)
・クレタ島はオスマン朝本部に近い、アナトリア西部にもアクセスしやすい(間にはコルフ島しかない、補給路が少ない)

ヴェネツィアは至急艦隊を結成し対抗→ダラダラ継続
カンディエの城壁、堅牢強固
クレタは農作物とれる→カンディエ周辺守れば籠城できる
165?-59年、ヴェネツィアは毎年春ダーダネルス海峡(エーゲ海と黒海)を封鎖できたのが輝かしい功績
1656年オスマン艦隊を撃破、レパントでの敗北くらい
1648年に30年戦争が終わり援軍来た(これまで(西、(親西の)ナポリ(オスマン朝と対抗する敵国))と顔ぶれ違う、プロテスタントの英や、仏(オスマン朝からアフドナーメ付与された友好関係結ぶ国))
(政治的経済的背景から英仏が地中海世界に侵入)

オスマン艦隊がヴェネツィア艦隊に対抗できなくなった理由
1.手漕ぎのガレー船に代わって帆船ガレオン船が主流になったturning point
船のタイプが切り替わる中、ヴェネツィアは乗り換えに成功したがオスマン朝は切り替えられなかった説(史料によるとオスマン朝は相当数導入していた)

1656年撃破されたオスマン艦隊の編成
オスマン朝史料:ガレー船45隻、ガレアス船(帆も漕ぎ手も)8隻、ガレオン船27隻
ヴェネツィア資料60隻 9隻 28/29隻

ヴェネツィア艦隊の編成 31隻 7隻 29隻

オスマン朝もガレアス船も導入していた

何が問題?
・オスマン朝はガレオン船の漕ぎ手を準備できなかった
ガレー船重視に切り替える、17c後半に至る過程で
・「怠慢」であったから
チュニス征服するまで海戦いっぱい
クレタ戦争までは海戦なかった、オスマン海軍が堕落した?
→ヴェネツィア側も海戦なかった。オスマン朝側だけが緩んだのではない
・オスマン朝は海軍に力を入れていなかった説
戦争が始まると人手、戦艦を集める(常備軍は近代)
熟練した船乗りがいないオスマン朝
マグリブの人たちはいる
普段は略奪行為、戦争になると戦争協力
16c末から協力的ではなくなる
マグリブのオスマン中央政府に対する独立化が進行
直轄地のコアなところだと中央から民政カーディー派遣
遠いところは、民政を現地民に任せる
マグリブ地方には総督いたが、16c末に総統が有名無実化、現地で選ばれた人が実質的支配者に
中央のコントロールが効かないように
マグリブの人艦隊の派遣を要請→わずかな人員のみ

結果
東地中海の主要中継地点を全て手中に
マグリブ方面との繋がりも緊密に
オスマン朝の最大版図に
陸:ハプスブルク家、ハンガリー・ウイバル、ポーランドウクライナ・カマンチェ占領1672年にクリミア強化(その延長線上に第2次ウィーン包囲)
カルロヴィッツ条約がターニングポイント?
東地中海の航行

1683年ウィーン包囲
1699年カルロヴィッツ条約、一部領土を失う、ペロポネソス半島が割譲
オスマン朝領土は18c末まで安定
18c末、ナポレオンの埃及、ロシアが地中海に、勢力関係変化

7/10休み
7/16テスト 論述 持ち込み可(電子機器不可) 流れなど、本質的なこと


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