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4年前期 東洋史学(水2)オスマン朝04

前回のあらすじ

オスマン朝勃興、アナトリアやバルカン半島へ領土拡大

今回の概要

コンスタンティノープルを占領してどうなっていったのか
地中海方面進出への本格的な足がかりに

メフメト2世、1204年コンスタンティノープル占領
→"帝国としての"オスマン朝に
ハギアソフィアをモスクに変えてしまう
(別のイスラーム王朝でもよくあること、キリスト教徒の一部をモスクに変えて)
ギリシアのすま(?)、イスラーム系の建築がある
再利用は合理的
ハギアソフィア、ビザンツ時代の聖母子像のモザイクを教会からモスクにするときにオスマン朝時代に塗る
今は漆喰を剥がして見えるように

ヴェネツィアのサンマルコ聖堂、ハギアソフィアに似ている
アヤソフィアを見た人が作ったと言われる

寄進文書「彼[メフメト2世]は偉大なスルタン*である。ウンマ[イスラーム共同体]に所属する長である。ローマの帝国の終焉の後に神アッラーの言葉を掲げたものである。彼はこれまでにアレクサンドロス王の時代を体現している。先達たるアレクサンドロス王の杖を[後継者である]」
*君主号、元はベイリク、オルハンの時代からスルタンと自称、ベイリクより偉い。ただし公文書類ではパーディシャー(大王)と称される。スルタンは皇族女性にも使われる、ハティジェ・スルタン
主語が「彼」なので書かせたがメフメト2世の意思が入っている
アレクサンドロス王や統一ローマ帝国の長の後継者とみなす

トプカプ宮殿
TopKapi Sarayi
大砲の門

トプカプ宮殿

Sultan'l-berreyn
ve
Hakkann'l-bahreyn
「二つの陸のハーカーン、二つの海のスルタン」
eyn(双数系)

アナトリア、バルカン地域征服してきた
コンスタンティノープル征服後も信仰続ける
カラマン侯国征服
→アナトリアの大部分を征服
モレア半島(ペロポネソス半島、ギリシア本島)、セルビア、アルバニアを占領
コンスタンティノープル占領、イルメリー
アナトリア側に渡るの簡単
→アナトリア、バルカンの征服者
→二つの陸のハーカーン

黒海

ボルポラス、ダーダネルス海峡占領
→黒海、地中海の制海権占領
黒海を抑えて地中海へ
メフメト2世で黒海沿岸をほぼ占領
トラブゾン(トレビゾンド王国)
ケッペ(カッパ)=クリミア半島を占領、クリミア=ハン国を属国化

バヤジット2世にアッケルマン占領(河口ぐち)
黒海をオスマン朝の内海にする
コンスタンティノープル占領は黒海抑えることに繋がる
逆に、黒海抑えないとコンスタンティノープル危うい
17、18Cに露強大化、南下
→オスマン朝の制海権が脅かされる

地中海

エーゲ海、アナトリアとペロポネソス半島に挟まれている
伊都市国家ジェノヴァ、ヴェネツィア(中世、近世初は海上交易で優勢、モンゴル帝国とも繋がりあった)
商業国家、交易地点に拠点作る
東方貿易(レヴァント貿易)で黒海に
黒海北岸=クリミアハン国、モンゴル帝国の流れをくむ
ジェノヴァ、ヴェネチアは通り道となるエーゲ海に拠点
陸地、島

島…
オスマン朝はジェノヴァ領島嶼部占拠
サモトラス島、イムロス、レスボス、レムノス、タソスを1452, 1456年に占領
次に、ヴェネチア領のアルゴス、エヴィア占領
モレア半島(ペロポネソス半島)を占領

島の重要性←前近代の航海技術
接岸航法
長距離を船で移動できないため島や港が中継地に
水や燃料補給、交易
e.g. 北前船、瀬戸内海の港や島、北陸、東北→松前や江差
戦国期の村上水軍
京都大阪が政治の中心、そこに行く船は瀬戸内海を通る、因島いんのしま、生口島いくちじまを占領して交通を掌握

エーゲ海方面で覇権獲得
メフメト2世
ロードス島にも領土を伸ばそうとする
地中海の派遣獲得への一歩
ザキントス、ケファロニ、レフカダ=イオニア海の拠点
メフメト2世の急死(毒殺?)で遠征中止

シリア、エジプトの征服

マムルーク朝(1250年~1517年)

アイユーブ朝(by サラディン)の君主の元のトルコ系軍人奴隷(主人と所有被所有関係でしかない、軍人のエリート)が作ったのがマムルーク朝
奴隷やその子孫が支配

前期:バフリー・マムルーク朝←トルコ系軍人奴隷出身
後期:ブルジー・マムルーク朝←カフカース系(コーカサス)軍人奴隷出身者

オスマン朝と協力することも
大航海時代、スペインポルトガルがインド洋に進出
ヨーロッパからインド洋に行くには紅海を経由してアラビア半島南端を通ってインド洋に抜けていく
ポルトガルは避ける
アフリカ大陸の南を回ってインド洋へ
イスラーム世界への脅威

ポルトガルは紅海にも侵入
地中海、インド洋の中間地点
イスラーム王朝はここ抑えて儲けてたから困る
メッカ、メディナ

ポルトガルは経済的、宗教的に問題
マムルーク朝はオスマン朝に救援要請
→助ける、南進の足掛かりにも

ラマザン侯国、ドゥルカドゥル侯国がオスマンとマムルークの紛争地
→マルジュ・ダーリーフでオスマン勝利
→シリア、カイロへ

オスマン朝がマムルーク朝を征服したことで、マムルーク朝領のシリア、エルサレムを獲得
地中海東側がオスマン朝占領地に
メッカ、メディナを受け継ぐ

アッヴァース、ファーティマ、マムルーク(エジプト拠点)がメッカメディナを所有
上から、左からの交差点にあったエジプト
イスラーム世界での盟主としての立ち位置のマムルーク朝
スンナ派、シーア派
マムルーク朝と戦うときに正当化しなければいけない

ファトワー「異端者[シーア派サファヴィー朝]を助ける者[マムルーク朝]は異端である。異端[マムルーク朝]との戦いは聖戦である。」
政治、生活に関わるイスラーム法に依る法的な判断
国が戦争するときに正当か否かの理由付け
イスラーム王朝はイスラーム法に従って国の運営する
イスラーム法に照らして正しいとして国の政策をする
建前としてそれが必要
スンナ派を奉じる
マムルーク朝と戦うのは相当な理由付けが必要
イランのサファヴィー朝、シーア派
互いに異端扱い

「両聖都のしもべ」
Ha^dinu"l-Haremeyn

カザー、郡
メッカ、メディナに郡がおかれる
オスマン朝中央からのカーディー(行政官)が統治
両聖都は生産能力がない
両聖都へのワクフ、オスマン王宮からの支給、ジェッタ(ジッタ)・港町からの関税収入で経済支援
オスマン朝による大規模な戦争の戦費の1/2 ~ 1/3
両聖都の保護はイスラーム世界の覇者として重要

キリスト教の総主教座
ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア(アンタキア)、イェルサレム
4/5占領

オスマン朝のマムルーク占領は宗教上も重要な意味を持つ

海上航路の問題

シリア、エジプトは豊穣の土地
農産物
食料、衣類
交易拠点
イランに国策で生糸を作らせる
イラン産生糸がシリアの南から地中海各地へ

エジプト
メッカメディナに至る交差点
紅海、インド洋への通過点
生産地でも遠距離貿易の中継地としても重要
オスマン朝の税収入の1/3はエジプト(?)

イスタンブール・エジプト間
陸路アナトリア、シリア通っていく
海路は大量のものと人を運べるから重要

海路
イスタンブル→ロードス島*→キプロス島**→シリア→アレクサンドリア
*マルタ島の聖ヨハネ騎士団の本拠地、十字軍結成から、巡礼者を保護
**ヴェネチア領土、ロードス島とキプロス島が絶対必要に
これらの島々を順に占領
東地中海の航路を抑える

クレタ島*は西地中海と東地中海を繋ぐ
***ヴェネチア領

上の島をめぐってヴェネチア v.s. オスマン朝

次回

プレヴェザの海戦


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