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4年前期 東洋史学(水2)オスマン朝08

前回のあらすじ

16-17cにプレヴェザ、レパントあって17c終にウィーン包囲と海戦あるがそこは入らない
本講義ではクレタ戦争まで
レパント海戦後の政治状況

1571年レパント終
1574年チュニス征服→地中海方面の征服終わり

チュニス征服

北アフリカの真ん中

アルジェ征服後にスペインと攻防時にチュニスも狙っていた
∵海上ルートを抑えることに繋がる

トリポリ、アルジェリアはオスマン朝支配下
喉の奥の小骨なチュニス(スペイン領)
性格にはスペインに服従する別のイスラーム王朝ハフス朝の配下

レパント以前
西地中海方面進出を
ウルチューアリパシャ、アルジェ総督
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA 

レパントで海軍提督に昇格
ハフス朝、チュニス一帯を支配

ウルチューアリパシャが征服
1573年にスペインが再征服
∵オスマン艦隊が不在

スペイン傀儡として
スペインが直接統治するわけではないが間接統治
フェリペ2世、対オスマンの拠点として仕えたのにリソース割けなかった
スペイン支配下オランダで独立戦争(宗教改革)
「オランダ独立戦争」
1574年にオスマン朝艦隊がイスタンブールを出発
クルチ・アリ・パシャの300隻の大艦隊
オランダ独立戦争で応戦できず
スペイン軍は7000人、2000人のみが捕虜として生き残った
オスマン朝の圧勝
チュニス征服を最後にオスマン・ヨーロッパ間で大規模な海戦起こらず
1645年のクレタ戦争まで

オスマン朝とヴェネツィアスペイン連合軍の戦争→ヨーロッパ内の戦いにシフト

無敵艦隊アルナダも対英

オスマン朝はエーゲ海等、本拠地での活動に戻る

本拠地、ホームの海はエーゲ海
チュニス征服で地中海西部への進出を終わる
「覇権回復した」
「一方で覇権回復したとは言い難い」
ターニングポイント

チュニス征服後チュニス州に
ガルプ・オジャクラル
ガルプ(西)オジャク(軍団)ラル(征服)
トリポリ、アルジェ、チュニスなどを総称
欧州からだと「バルバリア」呼び

バルバロス・ハイレッティー・パシャがアルジェの実質的な支配者
海軍提督として重要に
海上で略奪する海賊のような集団
海賊行為が収入の多くを占める
「バルバリア海賊」
19cの手前まで
『ドン・キホーテ』作者セルバンテスも捕らえられる

レパントの海戦後のオスマン朝の対外政策自体の変化

1571年に神聖同盟に敗北
キプロス領有認められる
精神面のダメージもあった
ヨーロッパ方面への作戦に慎重
ポルトガルが進出しプレゼンスがあるインド洋
全くの外来種、在地の人には脅威
インド洋方面のムスリム王朝、グジャラート
スマトラにもムスリム王朝
イスラーム世界の盟主オスマン朝に援軍要請
レパント後派遣に慎重に

スフルルメド・パシャ(?)大宰相が運河建設
一方カスピ海へも手を伸ばそうと
新興国ロシアが中央アジアへの南下図る v.s. ドン・ヴォルガ方面への進出(レパント後に慎重に)

三方向へ手を伸ばすのをやめる
→地中海に集中
軍事的解決からヨーロッパ諸国との外交重視へ
レパントの海戦直後1571年~1574年は仏との関係が重要に

ヨーロッパの勢力図
フランスはハプスブルク家と対立、脅威
オーストリアもスペインもハプスブルク家
スペインの強大化を望まない仏
ウィーンのハプスブルク家は神聖ローマ帝国の諸侯を一緒に引き込もうとする
オスマン朝友好国仏
仏はヨーロッパでの対オスマン朝包囲網の情報を報告
オスマン朝君主、独諸侯がオスマン朝と和平結ぶなら独諸侯に危害加えないと約束→中立化
ウィーンのハプスブルク家に使節、8年の休戦協定延長
ウィーンのハプスブルク家にとっても好都合
オスマン朝包囲網の拡大を阻止

カトーカンブレジ条約で終わる→スペインのハプスブルク家が強くなる
宗教改革と対抗宗教改革
カトリック側がプロテスタント勢力に対して抑圧
プロテスタントがボヘミア、トランシルヴァニア
フランスのプロテスタント勢力、カルヴァン派が圧迫されていた
レパント後、スペイン・ハプスブルク家の圧力が強まる
1572年ヴァルテミー(カトリックがプロテスタントを排除)
オランダによるスペインに対する反乱も圧迫
スペインが英に対する侵略も企てる
スペインの圧力が強まる
ハプスブルク家のライバル国は外からの協力者必要→オスマン朝

スペインの背後をオスマン朝に撃たせるためエリザベス女王はオスマン朝に使者派遣
1580年オスマン朝はイギリスに通商特権カピチュレーション
東南アジアの香辛料はオスマン朝経由
シリア、エジプト、アナトリア西部は豊穣
関税を5%から3%に引き下げる、ムスリムと同等
1590年レヴァント(中近東)会社設立
そのノウハウを生かしてその後にイギリスの東インド会社設立
オスマン朝はスペインとオランド

レパント後、オスマン朝は外交関係に力を入れる、特に仏英蘭

仏はもともと友好国
外交関係結ぶ上で次々
オスマン朝との交易に進出
私掠者 privateer
エリザベス女王へ臣従したドレーク
ヴェネツィアが海上国家で優勢
英蘭が進出、バランスが変わる
1673年和約結ぶヴェネツィアは中立
仏の仲介でオーストリア・ハプスブルク家と対立する蘭が神聖同盟に入るのを阻止(?)
外交面では遂行
アルマダ派遣前
スペインとオスマン朝は和約結ぶ8年
→スペインの背後の安定を確保し、無敵艦隊を英に派遣

日本でスペイン宣教師→イギリス・オランダ系宣教師になった背景


海戦を行うように仕向けたい
オスマン朝と和約結ぶがスペインとオスマン朝が仲いいことはメリットない
和約破棄するよう働きかけ
国境付近で問題
ハンガリー方面でハプスブルク
西ヨーロッパ
イギリスフランス
ヴェネツィアは中立
しかし戦争は長引く
国境方面の城塞の奪い合いで終始
オスマン朝内では反戦運動
戦争から逃亡した騎士、ジェラーリーの乱(内乱)
解雇された兵士や農民も加わる@アナトリア

ライバルのサファヴィー朝@イラン、シーア派
宗派の違い
隣国だからライバル関係
オスマン朝、1578年から戦争繰り返す
背後を取ってサファヴィー朝がオスマン朝に侵攻

オスマン朝の戦略
「陸が落ち着いてから海で戦争」
東西で外国と接している→「東西一方でのみ戦争」

オスマン朝にとって不利
1606年ジトヴァトロワ、和約結ぶ
ハンガリーを巡っての戦争
オーストリアが年3万の奉納金を放棄してオスマン朝の領土だと認める
ハプスブルク家に一歩譲る
カピチュレーションでもオスマン朝から相手の国に与えるという上から下
君主の称号も低い
→Kayserという称号をハプスブルク家領主に使う
オスマン朝と対等であることを認める
20年の和約

レパント後からクレタ戦争まで

地中海で戦争なし
チュニス征服以後大規模な海戦なし
オスマン朝艦隊あるが戦争するためではなく、オスマン朝防衛のため
私掠者、国の支援受けた略奪者の略奪が前面化
バルバリア海賊のみならずオスマン朝も
マルタ騎士団も略奪行為
相手の国を牽制
ヨーロッパでは宗教改革に端を発する30年戦争1618-1648年
ライバルで隣国のヴェネツィアとも和約後友好関係
オスマン朝君主
16c後半から17c、君主の母皇太后が権力
幼年なスルタンが続く
母が外交方面でも影響力を行使
ヌールバーヌー・スルタン(ムラト3世の妻、次のメフトメ3世の母)
サフィイエ・スルタン
が親ヴェネツィア派、彼女らのテコ入れで
エリザベス1世とも贈り物
ヴェネツィアとはレパント以後70年平和
しかし、
1645年から1669年クレタ島戦争

アフドナーメ
海上略奪はある


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