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「唯除」といふはただ除くといふことばなりといへり

雪が降り、吉崎別院にも雪が積もりました。歩けないほどではないけれども、境内を進むには少々難儀するくらいの雪が積もりました。堂縁にも雪が吹き込み、凍って、溶けて、べちゃべちゃになりました。雪かきは毎年のことですし、堂縁がぐちゃぐちゃになるのにも、最初は閉口していましたが、今では慣れてしまいました。慣れてしまうことは、手の抜き方をおぼえるということでもあります。適度に手を抜くことが悪いわけではないかもしれないけれども、手を抜くことに慣れすぎるのはよろしくありません。この時期はお参りの方も観光の方もほとんどいないうえに、今は別院前に建設中の道の駅の工事のため、駐車場も使えなくなっています。なので、あまり人の影を見かけることもなくなります。だから、急ぐことはない、のんびり片付けようと考えていました。

そうしたところ、昨日、近所の方が別院を気にして、雪かきに来てくださっていました。ちょうど私は用事で出かけていて、帰ってきた時にはきれいに境内からお御堂の前まで安心して人が通れるようにしてくださっていました。感謝して何度もお礼を申していると、夜になってその方からLINEが届きました。

「毎年、毎年、雪が降ると、慈海さんの苦労が、身にしみました。愚痴1つも、言わずに、お仕事と、耐えての事 ~ご苦労様です ~ほんの1部でも、手伝い出来る事 、有り難く思います ~ (中略) 暖かくして、お休み下さい🙏お願い致します(ありがとう)(ありがとう)。」(原文ママ)

ねぎらわれるほどの苦労どころか、怠惰な私は手を抜いてばかりで、何事も後回しにしてばかりいます。実際、この方に雪かきをしていただいてしまったこと自体、私がサボっていたからです。申し訳ない気持ちになります。

そんなことがあったのに、今朝起きてみるとまたもやしっかりと雪が積もっていました。せっかく雪かきしてくださったのに、朝方監視カメラで確認すると、境内はまたもや一面真っ白になっていました。

いたたまれない気持ちになりました。なので、今日はお休みでしたが用事もなかったので別院まで来てみました。階段も、境内も、せっかくきれいに雪かきしてくださっていたのに、その跡さえもわからないくらいに、またしっかりと雪が積もっていました。

「ほんの1部でも、手伝い出来る事 、有り難く思います」

先ほどの方のこの言葉を思い出して、そうだったなぁとスコップを手に取りました。ほんの数回スコップを振り回しただけで、汗が噴き出て、湯気が上がっているのが自分でもわかります。私は、いつから、ほめてもらえないから、認めてもらえないからといって、腐ってしまうことを良しとしてしまうようになったのでしょうか。吹き出る汗が、なんだか膿のようにも感じられます。ゼイゼイ息を切らして雪かきをしていると、人の気配がありました。

振り向くと、きれいなお嬢さんが今さっき雪かきしたばかりの参道をこちらに向かって歩いてこられました。

「こんにちは。雪がきれいですね」

満面の笑みでそう声をかけられて、どこかで会った方だろうかと記憶をさぐりながら合掌してあいさつすると、あちらも手を合わせてくださいました。なんだかこのやり取り、以前にした記憶がありました。あぁ、それは昨年のことだったかもしれません。あの時も同じように雪かきをしている時でした。確か、趣味で写真を撮りに来られた方だった気がします。

「雪が降ったから、きっと綺麗だろうなってまた来てみたんです」
「そうでしたか。ようこそのお参りです」
「御山、登れますか?」
「あぁ、今日は私はまだ御山に行っていないのでわからないですが、この雪で途中までしか行けないかもしれませんね…」
「そうですか。でも、いけるところまで行ってみます」

そう言って、晴れやかな笑顔で境内を明るく照らしながら、その方は御山の方に歩いて行かれれました。そのお姿を手を合わせながら見送り、また雪かきを続けました。

道を作れば、こうして人が入ってきます。はじめましての方であったり、久々にお会いする方であったり。やっぱり、いつの間にか私は逆に考えるようになってしまったのかもしれません。

やっとお御堂の前の雪の山を崩して、なんとか人が通れるくらいにしたところで、また雪がボタボタと降り始めました。あぁ、きっと明日の朝にはまた積もってるのかもしれないなぁと思いながらも、それはそれでいいかと思いました。また道を作ればいいだけのこと。そしたら、また誰か人が入ってこられる。仏様に手を合わせていかれる。

先日、佐賀県までお取次ぎに行った帰りの時に、暴風雪で高速道路が通行止めになり、国道も封鎖されてしまって先に進めなくなってしまいました。仕方なく車中泊も考えましたが、身の危険を感じたので急遽ホテルを探して一泊することにしました。吹雪の中、職員さんらしい方が走り回って一台一台に通行止めであることを説明して回っていらっしゃる姿に、ふと「抑止門」ということを思い出していました。

抑止門
 抑止とはおさえとどめること。
『大経』の第十八願文および成就文に、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(五逆罪と謗法罪を如来の救済より除く)とあるのは、これらの罪は重罪であるから、衆生がこれを犯さないようにおさえとどめるために説かれたとするのを抑止門という。
さらに親鸞聖人は「除く」と説かれたのは、逆謗が極重罪であることを知らしめ、回心(えしん)せしめて、みなもれず往生せしめようとされた意であるといわれている。
 抑止は抑えとどめること。謗法・五逆は重罪であるから、衆生がこれを犯さないようにおさえとどめて説かれた法門。 (散善義 P.494)

(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
wikiarcより転記

それ、人間の五十年をかんがへみるに、四王天といへる天の一日一夜にあひあたれり。またこの四王天の五十年をもつて、等活地獄の一日一夜とするなり。これによりて、みなひとの地獄におちて苦を受けんことをばなにともおもはず、また浄土へまゐりて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたづらにあかし、むなしく月日を送りて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。
このゆゑに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。これまた自行化他の道理にかなへりとおもふべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。

御文章 (二帖第十二通)

信のうへは仏恩の称名退転あるまじきことなり。あるいは心よりたふ とくありがたく存ずるをば仏恩と思ひ、ただ念仏の申され候ふをば、それほどに思はざること、大きなる誤りなり。おのづから念仏の申され候ふこそ、仏智の御もよほし、仏恩の称名なれと仰せごとに候ふ。

蓮如上人御一代記聞書

仏恩を嗜むと仰せ候ふこと、世間の物を嗜むなどといふやうなることにてはなし。信のうへにたふとくありがたく存じよろこびまうす透間に懈怠申す時、かかる広大の御恩をわすれまうすことのあさましさよと、仏智にたちかへりて、ありがたやたふとやと思へば、御もよほしにより念仏を申すなり。嗜むとはこれなるよしの義に候ふ。

蓮如上人御一代記聞書

なんまんだぶ


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