見出し画像

とどまらずきえずたえず

風邪をひいたのか、昨日からふとした時にふらつくことがあって、頭もほんのりと重かったのですが、今朝目を覚ますと天井がぐるぐる回っていて、横を向いたら部屋の壁がぐるぐる回っていて、頭痛もなおさら激しく、熱はないけれども寒気もしていました。

とりあえずトイレに行きたくなってきたのですが、しばらく布団から出れないまま、生理現象に抗いつつ、ぐるぐる回る天井を眺めていると、鈍重化している脳みその片隅のほうからするすると、お言葉が這い出して来るのでした。

「慈海というは 無明煩悩この身に満ちみちて、イカリ ハラダチ ソネミ ネタム 心多く暇なくして、臨終の一念に至るまでとどまらずきえずたえず」

めまいでぐるぐる回る世界のまんなかで、もしこのまま起きれないままなんてことがあったら、ホントそうだったなぁとかぼんやりと考えていたりしました。そんな殊勝なことを思いつつも、しばらくするとちょっとずつめまいも収まり、動けるようになってきたので、這うようにトイレに行って、水を飲んでとしているうちに、さらにもうちょっと動けるようになってきました。食欲はないけれども、ちょっとはおなかに入れておいた方がいいだろうかと、たっぷりと蓄えている脂肪のことは棚に上げて、ふらつきながらご飯を買ってきて、それをもそもそと食べてと、体が生きていく上で求めることをこなしていくうちに、今度はふつふつと先日味わった屈辱的で腹立たしい出来事が頭に浮かんできて、ため息をついてみたり、イライラしてみたりとするのでした。

おあさじもしないままに、体調不良を言い訳にしてお勤めをサボって一日を始めてしまった罪悪感と相まって、なおさら先ほど布団の中で脳みその奥の方から這い出てきたお言葉を味わっていつつ、やっぱり、どうしても、どうやってもそうなんやろうなぁと、うなだれながら、仏名をぼそぼそとつぶやくのでした。

最近は、なんだかものを言うのが億劫になって、こういったブログ的なことも更新しようかなと思って下書きを書いているうちに飽きてしまって最後まで描き切らないことが多くなりました。まぁもとからそういうことが多いのですけど、近ごろはより一層多くなった気がします。動画の撮影しようかなと思ったり、ライブ放送しようかなと思いながらもめんどくさくなってしまいます。

時折、運転中や、それこそ朝目が覚めた時なんかに、強烈に頭の中にある言語化を待っているそれらを外に出したい衝動に駆られるのですけど、いざ携帯を手にしたり、キーボードをたたき始めると、どうでもよくなってしまうのです。まぁ、やっぱりこれも昔からそういう傾向がありますのですけれども。

それは、言葉を発するときには、常にその言葉の受け手側のことが頭に浮かんで、それが結局は、なんのために、どういう理由で、いかなる動機によって、私は仏語をこねくり回そうとしているのであろうかということが頭をよぎると、結局はそれも世間を主としている我が心、慢心がそうさせるのではないかと踏みとどまってしまうのです。

「慈海というは 無明煩悩この身に満ちみちて、イカリ ハラダチ ソネミ ネタム 心多く暇なくして、臨終の一念に至るまでとどまらずきえずたえず」

それはそうか、私が何をなすにしても、何を話すにしても、何を思うにしても、それはそれ、もともとこの身に満ちみちているのは、イカリ、ハラダチ、ソネミ、ネタム心ばかりで、それも隙間なく、絶え間なく、休む間もなく臨終の際のきわまでそうなのであるから、真実心もなにもないものから真実が言葉として出てくるわけではなかったのでした。

慈海の中には、一片の真実もなかった。
そのような慈海からは、たったひとことの真実でさえも作り出すことも、紡ぎ出すことも、発せられることもなかった。もしそれらしいものがこの身から聞こえてきたとしても、それを慈海は虚仮不実にしてしまうのでした。私という存在は、真実を真実ならざるものにしかできないものであるのです。

そのような、決して真実ならざるものから、最上最勝の大涅槃が言葉の姿となって、聞こえてくる。これを驚かずして何を驚くというのでしょうか。

なんまんだぶ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?