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仏法に身をひたされた生活|『正信偈』という日常のお勤め

浄土真宗門徒が朝な夕なにお勤めする『正信偈』は、蓮如上人が吉崎滞在時の1473(文明5)年に日常の勤行としてお定めになられました。今年はこの日常勤行が定められてからちょうど550年の節目となります。

『正信偈』は正式には『正信念仏偈』といい、御開山親鸞聖人が著述された『顯浄土真実教行証文類(教行信証)』の行巻末にある偈文です。日常のお勤めとしてはこの『正信偈』のあとに、節づけられたお念仏に合わせて、これもまた御開山聖人がお作りになられた『ご和讃』(浄土和讃高僧和讃正像末和讃)を数首ずつお勤めします。

蓮如上人がこの「日常の勤行を定められた」というのは、浄土真宗の歴史の中で、もっと言えば日本仏教史のなかでも、とても大きな転換期になるのではないかと個人的には思っていますが、浄土真宗の歴史にも、日本仏教史についても私はよく知らないので、あんまり大きなことは言えないかもしれません。

とはいえ、僧俗問わず、日常の始まりが仏徳讃嘆から始まり、その日の終わりに報恩謝徳で日常を閉める毎日というのは、「日常の中での仏法」ではなく、「仏法の中での日常」という生活をご用意してくださったことなのではと考えています。

『蓮如上人御一代記聞書』の中にこのような話があります。

人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。

(ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は「その籠を水の中につけなさい。
わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。)

蓮如上人御一代記聞書

『正信偈』にお念仏とご和讃を合わせて日常のお勤めとされた背景には、この私の日常がまさに仏法の水にひたされた生活となってほしいという思いがあったからではないかと考えると、やっぱり日常の勤行を定めてくださったことが、大きな転換期となったと思いたくもなります。まさに、人に聞かせる仏法でも、人に聞かされる仏法でもなく、私そのものが仏法の中にあったということを、我が生活のその場に落とし込んでくださった最大のご功績ではないかと思うのです。

お勤めというのは、その内容に意味を持つものではありません。日常の勤行となればなおさらです。水の中を泳ぐ魚が水の意味を知ったところで、生きる場所は変わりません。朝起きてまずは仏徳讃嘆から始まり、夜寝る前に報恩謝徳で一日を終えていく、そういった仏法に身を浸した生活というのは、たとえその日常の中でどのようなことがあったとしても、すべてが仏法の中での出来事となります。うれしいことも仏法の中。腹を立てても仏法の中。涙を流しても仏法の中。楽しいことも仏法の中。仏法に背を向けていようが、信心が有ろうがなかろうが、常に仏法の中でありました。

その様な日常の勤行としてお勤めしている『正信偈』の解説というのは世に五万とあります。数多くの素晴らしい先生方が深く広く御開山聖人のお示しをさらに私たちが味わえるようにひらいてくださっています。なので、私には改めて解説なんてことはできません。

ですが、あらためて蓮如上人がこの『正信偈』をどのようにお勧めくださっていたのかといったことを、机上の戯れとして、仏祖の掌の上で遊んでもらいたいという、甘えた気持ちもあります。

蓮如上人は『正信偈大意』という『正信偈』の解説書のようなものを残してくださっています。この『正信偈大意』を基に、『正信偈』の味わいを、蓮如上人のお言葉(御文章や御一代記聞書、その他の書物など)をいただきながら、整理してみたいなぁという気持ちがあります。

「蓮如上人のご文章にまなぶ」と題して、これまで3年以上毎月16日に、慈海所属寺の放光寺さんで、『ひらがな版 御文章』を一通ずつ味わってきました。それが、来月(令和5年3月)には一応の最終回となります。そして、4月からはまた改めて何かを始めようかなと考えていました。

ということで、令和5年の4月からは、浄土真宗の日常の勤行として、そしてこの身が浸されている"法の水"のおいわれをご一緒にいただいていけたらなと計画をしています。生きる場所は変わらずとも、この身をひたしている水はいったいなんやろな? というのを知っていくのも、また法の中での楽しみになるのかもしれません。

怠惰な私ですので、どうなるかはわかりません。いつものように途中で「やーめた」ってなるかもしれませんけど、そうだなぁ、自分用に整理したメモというかテキストのようなものを、ここに書いていくかもしれません。ご希望してくださる声が多かったら考えようかな。もし4月からの会の様子をライブとかで配信していいよってことになったら、YouTubeチャンネル「お寺座の怪人」で放送するかもしれません。なんかいろいろ考えていますが、結局やらないかもしれません。

ご希望、ご要望あれば、コメントかFacebookTwitterにでもどうぞ。お答えできるかはわかりませんけど...…

なんまんだぶ

<追記>YouTubeチャンネルでやっている御文章の動画も、そろそろ更新再開しようかなって思っていますが環境が整っていないので、ごめんなさい。もうちょっと、ごめんなさい。

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