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ヒーローになりたかった、結局一番の敵は自分だった(中編)

前編はこちら


行きの飛行機、寄せ書きを見て泣いた

OGXの人たちが、渡航前に作ってくれたこのノートね。最後のページにみんなからの寄せ書きがあって、さすがにちょっと泣いちゃった。

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これね

海外インターン日記 -10日目」でも書いたように、渡航直前はコミットメント恐怖症になりつつあって、「いやいやいややっぱ怖い、6週間後にすみません何もできずに帰ってきました💦💦って帰ってくるの怖すぎる!!!」という状態でした。もちろん「いややれる準備はしたでしょ、応援してくれている人もいるし、あとは動くだけ!」という気持ちもあったけど、やっぱ相対的に不安が大きかった。そんな時にみんなからの寄せ書き読んだら、やっぱねえ、泣いちゃうよねえ。特に美紗央からのメッセージ!あの子ほんとにいい奴すぎん?笑

 

生徒たちと一緒にいた日々

TNは、当初の予定と変わってSpecial needsをもった子供たちの通う学校。小野はそこで先生のアシストをしたり、ちょっとした提案をしたり、壁紙やポスターを作ったり、なんてことをしていました。

 

情緒不安定は、悪いこと?

小野は、この研修中、たくさん笑ってたくさん泣いた。自分の感情にできるだけ正直に、素直にいるようにした。モヤモヤした日はノートを開いてとことん考えてみた。結局、セルフマネジメントとかPDCAとか、そういうカッコいいこと言うけど、それ以前にそこに想いが乗らなかったらまた逃げてしまう。小野が何かを実行するとき、「自分の中での納得感」がないとやりきれない。自分の想いの乗った6週間にしたかった。目の前のことから逃げないためには、まず自分に向き合う必要があった。だから研修中はかなり情緒不安定だったと思う。でもその結果、行動の源泉をいつでも「わくわくすること」にできたんじゃないかと思う。情緒不安定だったけど、すごく「生きている感じ」がした。

そんなわけだから、ちょっと照れる気持ちもあるけど、小野のモチベーショングラフと一緒に6週間を振り返っていこうと思う。

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後半はわりといい感じに上昇傾向にあるように見えるけど、実際超ミクロで見たら毎日ガッタガタだったと思う…。

 

【渡航前-Week2】

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もうなんか、普通にしんどかった気が…。

初日とかまじでガタガタの二段ベッドの上で、掛け布団もってなくてガタガタに震えながら、死んだ目で日記書いてたな。友達に電話でも掛けようものならすぐ泣き出しちゃう気がした。だって英語は聞き取れんし、夜道は怖いし、信号の渡り方さえわからなかったんだから!

そしてやっと働き始められると思ったら、突然の職場変更。「え、そんなことある???」って感じ。
「納得いくまで駄々捏ねるべきか…。いや、でも与えられた環境を受け入れその中で頑張れる奴でありたいよなあ…」そんなことを考えながらの初出勤。いやふつうにしんどかった。疲れた。

当初働くはずだった職場と、突然決まった職場は似てるようで全然違う。取り組む社会課題もそうだけど、全然違うスタンスを求められた。

「一緒に夢を考えて勉強のモチベに!」どころではない。彼らがここで必要としているのは、そんなことではない。彼らは生きていくために、ここでセラピーを受け、必要なスキルを得ていく。

小野にも自閉症のいとこがいたとはいえ、彼らは全員違った特徴を持っている。コミュニケーションの取り方はさすがに少し戸惑った。ただ問題はそこではない。「小野はどうしてここにいるのか」がわからなかった。スタンスも定まらず、もはや目標も失いかけた。渡航前からじっくり考えてきたマイルストーンとかKPIは、全てぽしゃった。またイチから考え直し。もう考えるのが嫌になって、帰り道にビールを買った。ただでさえ慣れない環境で疲れているのになあ。
(誤解されたくないのだけど、ここの子供たちのことは最初から大好きだった。week1の途中でモチベが少し上がっているのは、初出勤でやっと子供たちに会えたのがすごく嬉しかったから!)

それでもなんとか、メンターさんや美紗央に相談に乗ってもらったり、旧TNにアポとって土曜に訪問させてもらったり………と多少は臨機応変に行動できたと思う。「職場変更くらいあるでしょ、フィリピンだし!」みたいなノリで乗り切った。

 
そんな自分にひとつ転機が訪れる。そう、2/14のバレンタイン!赤い服を着てみんなでお祝いするのがこっちのバレンタインの過ごし方。これには前にもnoteで触れた気がする。

とても特別な日だった。子供も先生も保護者も一緒にお祝いをした。自分がその中のひとりとして一緒に時間を過ごせている感覚がとても嬉しかった。恋人にチョコあげたりもらったりするバレンタインなんかより全然嬉しかった。愛だった。
そこではじめて、ここでもっと頑張りたいって思えるようになった。「この学校で働くことになったのは、何かしらの運命なんだ」と受け入れることができた。他の職場で働いてたインドネシア人のEPに、「いや私の職場、めっちゃええねん!」って自慢したりした。

ただこの時点ではまだ「なぜ小野がここにいるのか」の自問自答は続いてた。「ここで頑張りたい」というWantが出てきたところで、そこで求められていて果たすべきShouldと、ただの日本人ボランティアである小野のCanが重なる部分が、イマイチ見つからなかった。

 

【Week3-5】

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この時期はめっちゃ楽しかったなあ。
子供との接し方も段々わかってきたし、フィリピンの生活でも慣れてきた。土日が来るのが寂しくて金曜はちょっとしょんぼりしたりした。

持っていた折り紙を使って一緒に壁紙を作ってくれたり、生徒が「ジャパン!」って単語を発してくれただけでめちゃ嬉しかったなあ。

でももちろん楽しいことだけじゃなくて、いろんな試行錯誤もあった。授業中のみんなの素敵な姿を保護者の皆さんにも見せたい!なんて考えて、チェキで生徒の写真撮ってたらみんなカメラに大興奮しちゃって集中できなくなってしまったり。
みんな歌好きだし、ギターでも弾いてみんなに歌ってもらう?とか考えつつ、ふつーーーに断念したり。自分の目標を立て直すにしても、もう既に働き始めているから現状ベースで「できること」の思考に陥りがち。大胆なアイデアなんて出て来やしない!苦しい苦しい。

特に学校でのボランティアでありがちだけど、良くも悪くも「始業から終業までそこで働いていればそれで役割果たせてる感」がでちゃうのが難点。そこにプラスの価値を何かしら乗せていかないと、自分である意味がないよなあ…と焦る焦る。そんな中でも唸りながら、なんとか共同制作とかを、かろうじてできていた感じ。まあ少しでも残せるものが作れたから、良かった。

 

この頃には先生たちとの距離も近くなって、「子供たちのために、何かしたいんだよね」なんて話もするようになった。先生は最初「ただ楽しんでくれればいいよ」なんて言うもんだから、またまたそうやってただの観光ボランティア扱いしやがって~~~とか思いつつ(笑)モヤモヤしてた。

でも、先生だけじゃなく保護者の人とも話す限り、だんだんとそれがマジなお願いなんじゃないかと思えてきた。ずっと通ってきた学校が閉校になってしまうのは、生徒だけじゃなく親や先生たちにとっても、とても寂しいこと。学校の特性上、子供を思う親の気持ちや、同じような境遇で過ごす親同士のコミュニティは強固だ。ひとりひとりに向き合う時間も長い。それが、なくなってしまう。親も先生も、残された期間で「学校の記憶が少しでも子供たちの記憶に残ってほしい」と思っていた。それに気づいたのが4週目くらいだった。ならば私はとことんそれに寄り添いたいと思った。

同じ頃、ある生徒が初めて私の名前をヒントなしに言えるようになった。これも何度もブログで触れているくらいには嬉しかった。すごく嬉しかった。もっともっと、彼らの成長をこの目で見たいと思った。

自分の役割を考えることも多かった。結局自分は、お金もない知識も専門性もない、英語もヘタッピな20歳の泣き虫な日本人大学生。子供と遊びすぎて先生を困らせちゃったりもして、反省した。Teacher Kiyonaと呼ばれる度に、「自分はTeacherなのかなあ」と思ったりした。ただ、ふしぎと、他のどのアイセッカーより、いやもしかしたら何人かの先生よりも、私は子供たちが好きで、大好きで、超大好きであるという謎の自信があった。他に何もなかったけど!とにかく大好きだった。彼らの笑顔に(実際、顔が笑っていたかは別として!)いつも助けられてたから。Slackでは子供たちの写真と特徴をたくさん投稿した。LCの人が子供たちの名前覚えてくれて感動した笑

ここまでの確信度の高い強い思いがあって、研修期間を延長しない理由はなかった(といっても2週間だけど、就活が既に始まっている焦りとかも相応にあった)。もやもやしながらも、やっと自分の納得できる目的を見つけた。そこからは、彼らのために卒業動画を作ろう!とか、卒業式で踊るダンス覚えよう!とかいろんなことを考えた。先生たちがやらないことをやろうと思った。

 

【Week6-帰国】

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航空券も取り直した。アイセックとの契約もし直した。よかった、これであと一か月彼らと一緒にいられる、そう思って安心してた。

そして急にやってきた、コロナ。なんていうか、本当にほぼ何の前触れもなくやってきた。学校はすぐに休校になった。「休校になったらどうしようね」なんて話す隙もなかった。フィリピン政府、まじで日本とは違って決断が速い。何の疑いもなく「See you again tomorrow」と言った日の次の日から、学校は休みになった。

最初は、休校期間は一週間の予定だった。仕事はなかったけど、初日はとりあえず出勤した。次の日は、先生たちも出勤しないというから、とりあえずアコモにいた。生徒に会えないのが寂しくて、カメラロールを見ていた。ダンスをしている生徒の動画を眺めてて、「あ、家でもみんなが踊れるようにしたろ!」とふと思いついた。いつも学校でやっているダンスを私たちが踊って、生徒が飽きないように生徒の写真も動画にして、Youtubeにアップした。ほら、ちびっ子はみんなYoutube好きだし。先生に頼んで、その日中には保護者たちに送ってもらった。小野、Youtuberデビュー。(自己評価的に、ここまで素早く行動できたのはポイント高い笑)

次の日は、それを評価してくれた先生が、もっと動画を作ろうと持ち掛けてくれた。よっしゃーーー仕事だ!!!と思ったのも束の間、今度はメトロマニラが封鎖されるときた。しかもほんの三日後から。帰らざるを得なくなった。

意外にも、この時はまだ冷静だった。「今すべきことは?」と自分に問いかけ、その日の晩から学校の生徒全員と先生にメッセージカードを作りはじめ、先生にお願いして家庭訪問するアポをとりつけた。「一日でも早く帰った方がいい、帰れなくなるぞ」と言われつつも、そんなんはどうでもよかった。彼らに「ありがとう」「またね」と言わないままで帰れるわけがなかった。学校がなくなったら、もう二度と、一生言う機会を逃すと思った。

ふらふらになった。最後の三日は寝る時間も惜しかった。というか帰国が近づくにつれ、悲しすぎて全然眠れなかった。めちゃ早起きしてジョリビーでまたメッセージカードを書いた。倒れるかと思った。

とても全員には会えなかったけど、家庭訪問をして回った。残りのカードは先生に託して、私は帰国した。フィリピン滞在中、一度も恋しいと思わなかった日本に帰るのは、なんだか変な感じがした。しんどいことはあったけど、不思議と一度も帰りたいと思ったことはなかった。間違いなく、そこにいた愛に溢れた人たちお陰だった。

日本に到着してスマホの機内モードを切ると、先生からメッセージが来ていた。「たしかに子供たちは上手く表現できなかったかもしれないし、言葉では伝えられなかったと思う。でもあなたを信頼していて大好きだったってことは、明白。一緒に遊んだり、膝の上に座ったり、ハグをしたり手を繋いで傍にいるのは、シンプルだけど、彼らにとってはそれが信頼と好意の証拠だよ」と。

研修中は子供たちに寄り添えているか全然わからなかったし、最終日まで「結局自分なにやれたんだろうな」って自信なかった。だからこそ嬉しかった。保護者から、生徒の動画も送られてきた。「ちゃんと日本着いた!?大丈夫!?」みたいな内容。不完全でも、少しは寄り添えたって言っていいんじゃないかと思った。


(つづく)

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