電子の電荷はなぜ負なのか?

このような哲学的な問題が大学の課題として出された。そう決めたからに決まっているだろと考えるのは工学側の人間であるがこちとら文系か理系かわからんようなフヨフヨ存在なので調べた。領分が完全に科学史であるが気にしたらいけない。そしたら自分なりに答えが出たので公開しておこうと思う。来年同じ内容でレポートを書くことになった学生はこのページを写して提出しようだなんて思わないように。あなたの時はどうかわかりませんが私の時この問題を出したのは学部長でした(つまり、私は学部長相手にこの怪文書を送りつけたのです)。ダンネマンにもっといい解説あるかもしれないのでそっちを読んでね。

電子の電荷が負であることは多くの電磁気学者と学生の頭を悩ませている問題である。古典的なジョークとして、タイムマシンができたらまずは電磁気学の初期時代に行き脅してでも電荷の正負を逆に定義させようと主張する学者の話があるほどだ。おそらく核物理学者は電子を考えなくていいのでこの正負の定義の変更を阻止しようとするだろう。

それでは一体どこの誰がこのような愚かに見える選択をしたのだろうか。単純に考えれば、この電子の電化が負になるように電荷の正負が定義されたのは五分五分の偶然のように思える。しかし、わざわざ正負の記号を付けたのであれば何らかの理由があったのだろう。私はその謎を明らかにすべくインターネット奥地へと向かった。

まず手を付けるべきはマイケル・ファラデーである。戦後からしばらくの間、科学少年や科学少女のお供であった「ロウソクの科学」の元となった公演をした人物である(なおこの本を編集したのはウィリアム・クルックスであり、後で出てくる)。1834年、フィロソフィカル・トランザクションズに彼が掲載した論文にはすでに電流の正負についての記述があり、すくなくとも彼以前に出典は遡ることになる。ここで電気学の軽い歴史をなぞることにする。

静電気の存在は紀元前から知られていたが、ウィリアム・ギルバートが1600年に発行したDe Magneteによって静電気が発生するメカニズムの仮説が示された。これは物体から生えているeffluviumと呼ばれるものが摩擦によって取り除かれることで物体を引き寄せるという考えであった。もちろんこれは今から見れば誤ったものではある。しかし、彼によって電気現象と磁気現象が区別されたことで電気に特化した研究が始まったと言える。

これ以降、静電発電機の発明などによって静電気学の下地が構成され、スティーヴン・グレイによって電気伝導が発見された。これは帯電している物体が持つ「電気の力(electric virtue)」が伝播する現象である。これを元にシャルル・フランソワ・デュ・フェは1734年に電気を二種類の流体と捉える理論を発表し、その二つを硝子電気(vitreous)と樹脂電気(resinous)と名付た。これはガラスと樹脂をこすり合わせた時にそれぞれが帯電する電荷であり、それぞれ現代で言う正電荷と負電荷に対応する。

その後、静電気の研究において非常に重要な装置が発明される。ライデン瓶は1746年にエヴァルト・ゲオルク・フォン・クライストとピーテル・ファン・ミュッセンブルークによって独立に発明された装置であり、ガラス瓶の表裏を金属で覆った構造をしている。これは一種のコンデンサーとしての役割を果たし、触れると感電するほどの電荷を蓄えることができるが長期間持続した電流を生み出すことはできなかった。

海を超え、新大陸のイギリス植民地(独立戦争はまだ起こっていなかった)においてベンジャミン・フランクリンはライデン瓶を用いた実験を行い、1747年には電荷の概念について独自の理論を構築していた。この理論の趣旨は電気は一種類のみであり、物体がその内部に保持している電気流体量の大小によって陽(positive)もしくは正(plus)と陰(negative)もしくは負(minus)の二種類の状態が存在し、それこそが電荷の正体であると主張した。ここで彼が陽(positive)もしくは正(plus)としたのは「通常の方法でライデン瓶の内側に蓄えられた電荷」である。確かに瓶の内部に電荷がたまるという発想は直感的なものである。では「通常の方法」とは何だろうか?

ライデン瓶に電荷を蓄えるためには一般的に静電発電機と呼ばれる装置が用いられる。当時の技術的背景から考えるに、おそらくは帯電させる物質としてガラスを用いたものと考えられる。ガラスは加工が容易で扱いやすい物質であるとともに、摩擦によって正に帯電しやすい性質を持つ。

つまり、「加工しやすいガラスが電子と逆の電荷にに帯電しやすかったから」がこの問題の答えの一つとなる。

参考までに、それ以降の電子の電荷が負であることが確定するまでの流れについても書く。

19世紀前半に電池が実用化されて以降、電気学と磁気学は急速に進歩し、融合することとなった。電子の発見にとって重要となった装置はクルックス管であり、これは既存のガイスラー管を改良し新型のスプレンゲル・ポンプ(水銀を利用した真空ポンプであり、流石に手動ではない)を用いて高い真空度での実験を可能にしたものであった。

クルックス管において陰極から陽極に向けて発光する先のようなものが現れる。クルックス管の発明者であるウィリアム・クルックスを始めとして様々な人間がこの発光の正体を探ろうとした。ヴィルヘルム・ヒットルフによる指摘の後、オイゲン・ゴルトシュタインによって陰極線が確認された。最終的にジョゼフ・ジョン・トムソンが磁場及び電場による歪曲の観測と質量電荷比の測定により陰極線が何らかの粒子の流れであることを確認し、初期の原子モデルを構築した。この時点で勘のいい物理学者はプラスとマイナスを逆にしたほうが都合がいい可能性に気がついたかもしれないが、残念ながらすでにジェームズ・クラーク・マクスウェルが電磁気学の基礎方程式を確立しており、物理学者は全てのの書籍にマイナスをつけることを諦めたのであろうと考えられる。

よって、電子の電荷の修正が間に合わなかった理由の一つは「真空ポンプの技術発展が相対的に遅れたため」「定式化が早すぎたため」であるとも言える。

なお、これらの情報の多くは二次もしくは三次文献より得たものである。
以下に調査に当たり参考とした資料を示す。

VI. Experimental researches in electricity.-Seventh Series
https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstl.1834.0008

ベンジャミン・フランクリンによる電気の研究(平成 28 年度 日本大学理工学部 学術講演会予稿集)
https://www.cst.nihon-u.ac.jp/research/gakujutu/60/pdf/O-27.pdf

Franklin's Electrical Atmospheres (Roderick W. Home)
https://www.jstor.org/stable/4025288

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