【三島事件の研究本を研究する】①
◇ ◇ ◇ ◇
【三島事件の研究本を研究する・その①『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』林房雄】
◇ ◇ ◇ ◇
① 分類:(ア)・(イ)・(エ)・(オ)
(分類の詳細は下記をご参照ください)
② 『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』/文藝春秋社・1972/林房雄
③ 概要:文学のみならず、その政治活動に於いても三島の良き理解者であり、時には伴走者ともいえる存在であった作家・文芸評論家林房雄が、昭和22年の出会いから、やがて三島が鋭角的に政治に傾斜し、ついには昭和45年11月25日に市ヶ谷で自刃するまでの軌跡を描く鎮魂の書。
事実上の「序文」を自死直前の川端康成が書いている。
(帯文)「三島由紀夫への鎮魂歌」「浪漫的な死と頽廃的な死を峻別し肉体をもって言葉をなぞった若き友への追悼の書」
④ ポイント:林房雄氏と三島の交友は、終戦直後の新橋の焼けビルに在った新聞社(『新夕刊』)に始まり、事件に至るまでの約23年間に亘るものでした。
両者の関係は、ベテラン文芸評論家と新人作家というそれから、やがて民族主義的な色合いの濃い社会活動に重きを置く同志的なものになります。
本書は、三島の最後の約5年間、すなわち昭和41年頃から、ついには自刃に至る三島の心の動きを、間近でみていた林氏だからこそ書ける推察を中心とした”三島由紀夫論”であり、哀悼の書です。
⑤私感:三島の行動は主義主張を超えて多くの人々に衝撃を与え、人々は自らの思考をまとめるためにも”情報”を求めました。
そして、これに応えるため手軽にまとめた新聞・雑誌・文芸誌などでの三島と三島事件関連情報が世に溢れ出ました。
なぜなら、変人三島由紀夫と三島事件に関する情報は、あの時代を生きていた多くの市井の人たちにとっては、”とりあえず、まあ、気になる”ものだったのでしょう。
三島事件情報にはトレンドがあり、たとえば事件直後の、特に新聞記事などでは三島の行動を否定的に捉えたものも多く(有名なものとしては司馬遼太郎や松本清張などによるもの)、積極的に肯定したものは少なかったように思います。
また、否定しないまでも、どう評価したら良いのかわからないという(かなり正直な)立ち位置がゆえにまとまりの無い記事・著作も多々ありました。
これは、繰り返しになりますが、人々の事件に対する野次馬的な興味が、上手く商業ベースとコネクトしたからでしょう。
(この点に関しては、本書の中で「彼の死骸に群がり集まった記者・評論家たちの「近代の腐臭」をおびた”文学的解釈”は生前の三島君が最も嫌い、軽蔑したものであり、すべて無用無縁であろうと極言して差支えなかろう」と書いています。)
そして事件から一年四カ月を経て、ようやく戦後間もない時期から三島の(思想信条に於いての)傍らに居た、林氏だからこそ書ける事件の本質に迫る本書は、どこどこまでも三島とこの事件にたいする真摯な想いが伝わるものになっています。
ただ、読み進めると、正直、いくつもの驚く点に遭遇します。
それは、林氏が基本的には、三島の行動に理解を示し、三島事件を肯定的に捉えながらも、三島の周辺にいた幾人かの者たちに怒りをあらわにした”暴露”をおこなっているところです。
もっとも、その一部には林氏の誤解・混乱では無いかと思えるものもあります。(注1)
そして、そんな林氏もまた、徳岡孝夫氏によれば、昭和45年の9月頃には、おそらくはその少し前に三島氏が知った(?)ある出来事を境に、三島から距離を置かれていたとされている事を知ると、なんとも寂しく悲しい気持ちにもなります。(注2)
三島の『林房雄論』によれば林房雄氏との出会いは昭和21年(林氏は本書で22年の夏か秋と主張)、場所は新橋の焼けビルの中にあった『新夕刊』という新聞社に「渉外部長」として勤めていた林氏を三島が訪れたことから始まったとされています。
実はこの時、林氏は文壇の一部では「学習院の奇才」とも言われ将来を嘱望されてもいた三島由紀夫という作家を”知らなかった”と書いています。
さらに言えば、作家そして文芸評論家としても高名だった林氏ですが、その右翼的思想信条などもあって、文壇界隈では危険人物との評価がされており、自ら「当時の新作家たちのあいだでは、林房雄の「時評」でけなされるのはかまわないが、もし讃められたら文壇には出れなくなるという常識のようなものがあり~」との自虐的な一文も残されています。
三島の『林房雄論』に戻れば、「それほど悪名高い林氏に対して、私は『危険な交際』のスリルを娯しみ~」との記述のとおり、三島と林氏はその後、急速に深まり、永く新年の2日には鎌倉に在った林氏の私邸に先ずは詣で、その後に二人そろって同じ鎌倉の川端康成邸を訪ねるのを毎年の事として行っていたそうです。
この年始行事は十何年か一度として欠かされることなく続いたと、林氏は夫人の記憶の助けられながら回想します。
「この折り目正しすぎる年頭訪問を重荷に感じはじめたのはもう四、五年も前の事であった」と林氏は振り返っています。
そして「来年からはやめてくれよ」と切り出した林氏に対して三島は即座に「実は僕も重荷になりかけたところです」と答えました。
林氏は三島のこの言葉に「虚を突かれた」という失意の滲む回想を記しています。
実はこの頃既に、三島は後の行動に大きな影響を与えることになる自衛隊への(主に長期の体験入隊などを希望する)接触を行っていました。
こうして、林氏と三島の交流は新たな段階に入り、対談や後には三島も大きく関わることになる雑誌『論争ジャーナル』への寄稿などで、互いの思想信条を世間に訴えることになっていきます。
最後に林房雄氏と三島に纏わるエピソードをひとつ書きます。
「楯の会」隊員だった本多清氏が2020年に出された著書『三島由紀夫「最後の1400日」』(毎日ワンズ)によれば、昭和45年の11月19日(三島事件の6日前)に「班長会議」で三島と会ったとき、文学の話はタブーだったにもかかわらず、本多氏は三島に「一冊(小説を)しか読めないとしたら何を読めばよいでしょう」と尋ねると、三島は「林房雄の『青年』かな」と答えたといいます。
この本には書かれていませんが、この事には少し解説が必要です。三島はエッセイ『青年について』(『論争ジャーナル』S45年10月号、『決定版 三島由紀夫全集34』にも収納)の中で三島は「林房雄氏の小説『青年』の登場人物たちに、人間の一番美しい姿を発見していたのである」と書いています。
この事からも三島は、本多氏に”単に良く出来た小説”として『青年』を勧めたわけでは無い事が伺えるのです。
さて、話を戻すと、上記の徳岡氏の証言どおりであれば、この時期には三島は林氏とは気持ちの上での決別を行っていたわけで、この二つの”証言”を重ねると、このエピソードには何とも言えない”悲しみの調べ”が隠れているように感じます。
(注1)本書p.242辺りからの記述には、”関西出身のN、その同志の早大生のM”は”『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった”とあるのですが、幾人かを取り違えているように思います。
(注2)『五衰の人』(徳岡孝夫著 文芸春秋)p.164~辺りの記述で、三島は「もうダメです。あの人(注:林房雄氏)、右と左の両方から金を貰っちゃった」と徳岡氏が”それまで”見たことの無い、投げやりな姿と言葉使いで。言い放っていたとあります。
◇ ◇ ◇ ◇
昭和45年11月25日のあの日、東京市ヶ谷台の地で「三島事件」が起きてから半世紀が経ちました。
それでもなお、この事件に関して様々な角度での”研究”が行われ、その成果としての書籍などが世に出されています。
そこで、わたしが実際に触れる機会を得た中から、”付箋を貼っておこう”と思った内容のあった書籍などを取りあげ、このnoteに記事としてアップしていくとにしました。
いわゆる”書評”ではなく、”この本に、こんなことが書かれていますよ”という感じのnotesです。
今もなお、幾つもの解明されない謎は残され、真相は深淵のなかにあります。
そんな「三島事件」に興味を持つ人、これから興味を持つかも知れない方の参考になれば幸いです。
◇ ◇ ◇ ◇
① 分類(下記の5つのカテゴリー)
(ア)「三島事件」に至るまでの三島由紀夫の軌跡に触れたもの
(イ)「三島事件」と楯の会について触れたもの
(ウ)「三島事件」における自衛隊について触れたもの
(エ)自衛隊・楯の会以外で、何らかの形で「三島事件」に関わった者について触れたもの
(オ)”昭和41年頃から45年に至るまでの世情”などに触れたもの・その他
② タイトル/出版社/作者
③ 概要
④ ポイント
⑤ 私感
※予定では50冊程度を考えていますが、多少増えるかもしれません。
◇ ◇ ◇ ◇
《「三島事件」とは》
昭和45年(1970年)11月25日。当時、日本を代表する作家のひとりでもあった、三島由紀夫(本名:平岡公威)が、自身が組織した私兵集団「楯の会」のメンバー4名らと共に、当時市ヶ谷駐屯地に所在した東部方面総監部に乱入、自衛官に蜂起を促す演説を行ったのち、「楯の会」二代目学生長・森田必勝と共に自刃した事件を指す。
現在では三島の行動の目的を「憲法改正のため、自衛隊員にクーデターを呼びかる」とするものが主流だが、客観的な状況(本来であれば蜂起の主力になるはずの都心では唯一の実働部隊であり、当初の襲撃目標だった第32普通科連隊の主力が、富士地区で行われていた大規模な演習に参加するために不在になることを事前に把握していた)やその後の関係者らの証言から、そもそも自衛隊員が実際に”決起”を起こすことを期待してはいなかったとする考えもある。
また行動を起こす日を11月25日と早い段階(昭和45年夏頃)に決め、本来であれば重要視すべき上記の状況などを無視し、決起に至った事情などは、本事件の裁判でも取り上げられることはなかった。
”大正10年、大正天皇の疾患を理由として裕仁親王が摂政に就任した日”とする説などがあるが、決定的な資料や証言は(現在のところ)無い。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?