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金沢・兼六園へ

先日初めて金沢を訪れた。目当てはほかにあったので、正直ついでのつもりだったのだが、せっかくなので兼六園を散歩してみた。
恥ずかしながら、頂いたパンフレットを見て、ここが江戸時代、加賀藩によってつくられた金沢城の庭であることを初めて知った。そしてその広大さにも初めて気づいた。しかも、池や橋、松はじめ様々な植物が割と所狭しと配置されている大変豪華な作りで、歩道も複雑に入り組んでいるようだ。これは、庭めぐり初心者の私には難しい。効率的に名所を回ることは諦めた(そもそもどこが見どころなのか、いまいちわかっていないのだから問題はない)。今日は一人旅、心の赴くままに歩いてみようと決めた。
 
石川橋を渡った入り口から入ると、ことじ灯篭をバックに虹橋が架かる名スポットに着いた。兼六園の象徴とも言える場所なのだろう。橋の入り口で写真撮影の順番待ちする若者たちがたむろしており、新しい風情を生んでいる。私も彼らが入れ替わるタイミングで一枚だけ写真を撮った。
気の向くままとはいえとりあえず、他の観光客に続いて歩いてみた。やはり、少し歩くだけでどんどん景色が変わっていくので驚いた。13代藩主が琵琶湖から取り寄せて種子から育てた黒松だとか、日本最古の噴水だとか、自分の想像もつかないほど昔にすでにそんな技術や発明があったと思うと面白いし、恐ろしささえ感じてしまう。ちょうど梅林の花が咲き始めたところだったのだが、この梅林にも全国各地さまざまな種の梅が植えられており、その美しさの違いを楽しむとともに、当時の庭づくりへのこだわりの様なものも感じられた。
また、現在進行形でこの庭を整備する人々の存在も見逃せない。一面に茂る苔の手入れをする職員の男性が3人いた。繊細な手作業だ、庭の広さを思うとその苦労は想像を絶するものだろう。木々や水といった自然の美しさを感じながら、その美しさは当時から今に至るまで人々の力によって保たれているのだと知った。
一方で、人間の愚かさを感じてしまう場面もあった。ある松の幹に大きな穴の様な傷がついていた。1945年、軍用航空機の燃料にするため松脂を採取した跡だという。後で調べたが、戦況が悪化し燃料不足に陥っていた日本が、苦肉の策的に全国の松の油を集めたそうだ。結局松の油では戦闘機を飛ばせなかったというから余計に虚しい。私の隣で同じ松の傷を見ていたおじいさんが話しかけてきた。近年亡くなったお姉さんが戦争経験者で、昔この松の話を教えてくれたそうだ。生まれも育ちも金沢だが、話でしか知らなかったので見に来たとのこと。「こういうことがあったということを、貴方の様な若い人も覚えておくといいですよ」と話してくれた。いろいろ見て回ったが、この松の傷が一番印象に残ってしまった。
 
花を咲かすのも枯らすのも人の手なのだと改めて実感した。ただ傷ついた松でさえ、70余年経った今でも青々としているのを見ると、やはり自然のパワーに勝るものはないような気もしてくる。4月には桜も咲く、紅葉や冬景色も見てみたい。それに、大人になればまた違った何かを感じるかもしれない。ぜひまたいつか訪れようと思ったが、その時は、記念撮影もできるような誰かと一緒がいいものだ。

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