『1984年』 - ジョージ・オーウェル

読んでいる途中で既に名作の貫禄を感じた。話の運び方は大変に巧みだし、所々の写実能力も優れていた。作家として脂の乗り切った頃に書いたのだろうと思えた。

真理省、二分間憎悪、思考警察、二重思考、等々、様々な独自用語が出てくる。これらは荒唐無稽な創作などではなく、現実に存在するもののカリカチュアだ。こういった概念に名前を付け、人々がそれについて問題にし、議論できるようにしたという点で重要な小説であると思う。名前があるからこそ、人間はそれを意識し考えることができる。

例えば北朝鮮が飛翔体を発射した時のJアラートのことを「鳴ったからといって避けられるわけでもないし、まんま二分間憎悪の時間だ」と誰かが書いているのを目にしたことがある。これは中々秀逸な物言いだ。自民党がB層の支持を稼ぐために、中朝韓への嫌悪感情を近年ますます露骨に利用しているのは明らかだが、そこにJアラートをどう使っているか言い当てるには、このようにただこの単語があれば良いということになる。

作中で党は言葉をニュースピークに置き換えることで市民から思考を奪おうとしていた。〈その概念〉を指す単語がなければ人は〈それ〉を形にしてはっきりと意識できないし、もちろん〈それ〉について他人と語り合う事もできないからだ。言葉を奪うことは思考を奪うことなのだと物語は丁寧に説明している。

しかし最初に書いた通り、この作品が現実の読者に提供しているものは全くの逆だ。このようなディストピアを言い表す語彙を与えるばかりでなく、おまけにそのことの持つ価値まで親切にも読者の手に押し込んでいる。言葉を奪われるデメリットを明示する事で、反対に言葉がもたらすメリットを暗示するという一種「自己記述的」とも言える構成になっているのだ。

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言葉の話ばかり書いてしまったが、これがディストピア小説であること、そして最後のあの終わり方まで、こうでなければならない必要性があってこうなっている。この形の小説としては殆どお手本と言っていいくらいの出来だろう。

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