アンナ・カレーニナ

 恥ずかしながら途中で止めてしまった。
 光文社の訳は読みやすくて良かったが、どうしても間が開いて中断・再開を繰り返す格好になる上、スラブ系の人名は元来覚えづらいので、登場人物が増え始めた辺りで辛くなってしまった。そして何よりとにかく長過ぎる。19世紀ロシア文学と言えば大長編の黄金時代で、長いのは最初から分かっているし、それが悪いなんて思っちゃいないのだけど、いざ始めてみるとやはりこれにかける時間があるなら他にできる事があるんじゃないかとか、同じ「読む」にしてももっと他に読むべきものがあるんじゃないかとか、途中で激しい焦燥感に襲われて読んでいられなかった。

 真面目な反省を書くと、この時代の長編を読むなら家系図・関係図のメモは必須だったと思う。読書ノートを用意して万全の体勢で臨むべきだった。インデントやレイアウトがどうしても気になってしまうし、そもそも小説は木構造をしていないので、PCで書こうとするといずれ必ず破綻する。テキストファイルで地図を作ろうとするようなものだ。だから手書きの方がいいだろう。
 もしもまた挑戦することがあったらそういう構えでやっていきたい。が、現実的にはどうやらトルストイは一生読めそうもないというのが正直な実感だ。残念だけど。

 小説が長すぎるというより、問題はむしろ糊口のための労働が長すぎることの方にある。イギリスの飯が不味いのは産業革命で労働者階級が搾取され、家庭料理の継承が完全に途絶えてしまったからだという話を思い出さずにいられない。同じく長時間労働で悪名高い日本の労働環境が、いずれ国内のあらゆる文化を破壊し尽くすのではないか、というのもごく自然な連想だ。集中力の途切れた僅かな空き時間にソシャゲのガチャ回したりTikTok見たりするくらいしかやることがなくて、Twitterの短文でさえろくに読めない時がある。トルストイを読むなんて不可能だろう。
 それでも能力の高い一部の人はこういう環境下でもやれるのだろうけど、そうでなくて僕は、ごく普通の凡人が “健康で文化的な最低限度の生活” を送れる世界であって欲しかったと思うのだ。晴耕雨読が一体それほどの贅沢だろうか。(最後に最高の言い訳をかましてやった。)

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