まんがで読破 旧約聖書

 普通に生きてるだけで聖書からモチーフを借用した創作に山ほど出くわすことになる。アニメ、マンガ、小説や映画を通じて意味ありげな引用に触れるうちいつかは原典を読まなくてはいけないと思っていた。逆に言えば聖書さえ読んでおけば様々な符丁を読み解けるようになるのでお得感は高い。しかし聖書を読むのは難儀なのでマンガで要約されてるやつを読んだ。
 ちなみにこのまんがで読破シリーズは他にも色々出ている。調子に乗って買ってみたがどれも出来が悪かった。しかしこの旧約聖書のやつだけはそこそこ良かったと思う。(このアフィリンクを踏んで買ってほしい。)

メンヘラ

 神がメンヘラ過ぎて笑ってしまった。格調高い文語表現で書かれていれば違和感は感じないかも知れないが、マンガになっていると時々本当に面白い時がある。

 アベルとカインの話で、兄弟でわざわざ扱いに差を付ける意味が分からない。どうしてそんなことをするのか。弟殺しは神がやらせたようなものだ。何故わざわざ争いの種を蒔くのか。罪人であるカインですら神の加護の下にあることを示すためだろうか。アブラハムの話でも何故最愛の息子を生贄に捧げろだなんてBPD丸出し発言をするのか。何故そうまでして人を試そうとするのか。
 「神が本当に全知全能ならば人が罪を犯す事も予め分かっていたはずだ。しかし何故そこで激怒し人間を楽園から追放したのか。」そうユングが疑問を呈していたのを思い出す。蛇に唆されたとはいえそもそも蛇だって神自身が造ったんじゃないのかと。
 そうして人間をエデンから追放した後もしつこく付きまとう。疑り深く、嫉妬深く、“試し行動”を繰り返して実質的に信仰を強要する。人間が堕落しているせいだと難癖をつけてはたまにヒステリーのように天変地異を起こす。毒親そのものだ。

氏神

 話の中にエジプト人など他民族も出てくる。読んでいて少し驚くのが、神が当たり前のように自分の民(イスラエル人)しか助けないこと。他の民族にはごく平然と呪いや厄災をもたらすことだ。イスラエル人が要塞都市エルサレムに侵攻して陥落させた時も、神は一方的にイスラエル人にだけ肩入れし、奇跡を起こしてこれを助けた。「神がそんなことしていいのかよ」と思った。ズルじゃないか……。人間同士で争っているのに片方にだけ味方するなんて。神なのに全く公平じゃない。

 全体を通して一貫しているので次第にぼんやりと分かってくるのが、つまるところこの神とは「氏神」のようなものなのだということ。あまり先入観は無かったつもりだし、普通に読めば自然とそういう理解になると思う。

 おそらくこの頃は部族や民族ごとに神がいて、例えばエジプト人にはエジプト人の神がいて、イスラエル人にはイスラエル人の神がいる、そういう世界観だったんじゃないだろうか。(イスラエルの神が土からアダムを作り、アダムの肋骨からエバを作ったように)エジプトの神もまた何かしらのやり方で独自にエジプト人の祖を作ったのかも知れない。——それはともかく、例えばアラブの神なら当然アラブにだけ肩入れする存在だった。もしアラブに災いがあったのなら、それは彼らの、彼らの神への信仰が足りないからだ。だから自分たちの神の加護もなかったのだ。
 そうすると色々と辻褄が合ってくる。神が「信じる者しか救わない」のも当然の話で、アッラーを信じる者はアッラーに助けてもらえばいいのだ。それぞれ部族ごとのローカル神でしかないので、全人類を救う義理など元々ありはしないのだ。

排他的唯一神

 このように考えられる根拠は一応聖書の中にある。いくら一神教とはいえ他の神の存在は非公式に認知しているということが、その記述から暗に窺えるからだ。つまり“語るに落ちる”というやつで「他宗の神を信じてはいけない」「我らの神が唯一の神である」と、聖書の中で繰り返し言い含められることが、逆にその存在を裏付ける証拠なのである。他にも神がいるからこそ敢えて唯一神・絶対神を名乗る必要があり、他宗への鞍替えを疑って嫉妬深くもなる、ということだ。
 他にも神がいるだなんて想像すらできなかった・まずその発想自体がなかったという完全な意味での一神教というのは、人類の歴史上どうやら存在しないらしい。

戦場の神

 最後まで読み進めるころにはまた少し印象が変わってくる。あまりに頻繁に他部族と争いを繰り広げているので、おそらくそういう時代の話だったのだろうことが分かってくるからだ。旧約聖書とは道徳を教えるための物語ではなく、戦場で兵士を鼓舞するための物語だった。しばしば「世界最古の中二病設定」などと呼ばれるのもこの役割を考えれば当然の事だと言えはしないだろうか。最初は「神なのに公平じゃないのが変」だと感じたが、とんでもない。「我らが神がどうして、憎き異教徒や野蛮な他民族なぞを助けてやらねばならないのか。その方が不自然じゃないか。バカを言うな。」ということである。
 人類のごく初期の一時期、暴力が支配する時代の宗教とはそのようなものだったのだろう。
 他宗の神の威光に当てられその存在を無意識にでも受け入れることは、敵の存在を自分の中で大きくしてしまうことだ。これは心理的な弱みになってしまう。敵の部族にも超常的な神のような存在がついているだなんて少しでも信じれば士気に関わる。そんな予感すら振り切らないといけない。我らの神は嫉妬深い。全てを捧げなければならない。我らの神が唯一絶対だ。他に神はいない。迷うな。疑うな。神を信じろ。信じる者だけが救われる。余計なことを考えてはいけない。

おまえたちの前には敵が現れる。しかし恐れず進むがよい。主はお前たちと共に歩まれるのだから。

 迷いは弱さだ。闘争の時代には圧倒的な自己中心性・強烈な自意識・揺るぎない自信が必要とされた。図々しいまでの自己肯定が。反社会的なまでの自己愛が。生存の最低条件として必要だったのだろう。自分たちは選ばれし特別な民族で、超常の神に守られていて、敵は愚かで下等な蛮族だ。その時代にはそう考えることがむしろ必要だったのだと思う。

 厳しい制約を課したり、疑り深く試し行動を繰り返したり、或いは奇跡を起こして力を見せつけ、ご褒美を与え、契約を結び、或いはヒステリックに怒り狂い、妬み、罰し、人を振り回すのは、心の底からの信仰を強要し搾取することで、戦場に立つ兵士を一種のトランス状態にさせるためではないだろうか。
 神がメンヘラなのはこの視点では機能的とさえ言っていいかも知れない。余計な考えに囚われないよう洗脳し、迷いと恐怖を振り払う。旧約聖書とは人類史上初の「読む兵器」だったのでは。

新約聖書・物語の拡張

 最後のエピローグは新約聖書の予告みたいな感じになっていた。原作ではどうなっているのか分からない。

 新約聖書が編纂されたのには、時代が進むにつれ他民族を支配するようになり、武力闘争が落ち着いて次第に日常生活の中での秩序維持の方が差し迫った要求になったという背景があるのではないか。そこで必要に迫られ、物語を追加・拡張しなければならなくなったのではないだろうかと思った。
 中東の一民族、イスラエル人の氏神に過ぎなかった「我が主」「我が神」は、ついに全民族のための神となる。苛烈な部族間闘争の時代に兵士を鼓舞するためのストーリーだった聖書は、道徳を教えるための寓話集へと(或いは平和的に他民族を言い包め吸収するための手段へと)その役割を変化させた。
 新約聖書にはまだ手をつけてないので実際にはどうだか分からないが僕はそんな風に感じた。しかし聖書というのは歴史上最も良く読まれ・考察され・研究されている書物なので、この辺は正確な歴史考証に基づいた本当の答えがあるのに違いない。

神話の時代

 先史時代と有史時代の狭間にある、神話の時代。現実と空想の中間の曖昧な記録。何より興味を引かれるのは、これが全くの創作ではなくある程度は実際にあった事を元にして書かれているのではないかということ。当時の人は天変地異や災害の原因を知る術がなかったので、その理由を神に求めた。それがその当時最新の科学だったのだ。事実と仮説を区別する必要はなく、検証手段がない以上区別する意味もなかった。ただ主観的に “あったこと” を書いただけではないだろうか。考古学的に裏付けの取れている事実と読み比べると面白そうだ。

 最初にエデンの園を追放されてから人は東へ向かったと書いてある。それは事実、彼らの祖先が西からやって来て東へと進んだ事を示しているのに違いない。苦労して土を耕さねばならないと書かれていることから人類が狩猟採集生活から農耕生活へと移行した後に成立したのは間違いないだろう(成立時期的にこれは当然か)。ノアの方舟が40日間に及ぶ大洪水を生き延びたという話も祖先が重大な水害に見舞われたというところまでは事実なのでは。神がソドムとゴモラに硫黄の火を降らせて滅ぼしたという記述は、火山の噴火が起きて街が滅びたことを示しているのではないか。そうでなければ具体的に「硫黄」と明示されることに違和感を感じるほどだ。

その他

 これは(原作の)旧約聖書からの引用だ。

一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

 ティグリス・ユーフラテス川が洪水を起こしやすかったことは良く知られているが、その川の名に直接の言及がある。無学にして地理を知らなかったのでGoogleMapsで場所を確認してみるとイスラエルから距離も近く、聖書はこの辺りのご当地ネタなのだろうことが分かる。ノアの方舟伝説は具体的には川の氾濫について語っているのかも知れない。

 神がアブラムとその子孫に与えたという約束の地、カナン。現在のイスラエルは、人類発祥の地アフリカからアラビア半島に入ってすぐの場所だ。他でもないこの場所であることに意味を感じてしまう。

 翻って日本の神道では出雲国が聖地(の一つ)となっているが、この辺りは朝鮮半島から渡ってきた日本人(弥生人)が最初に辿り着いた場所ではないだろうか。(良く見ると結構距離があったけど、まあいい)なんとなくここに符合を感じる。人類には最初に着いた場所を聖地とする習性でもあるのか。勿論この辺の話は想像に過ぎないので真に受けないで欲しいのだが。

 ついでに日本神話の話をする。
 西暦535年にインドネシアのクラカタウ火山(或いは別の海底火山かも知れない)の噴火が起こり、巻き上げられた火山灰によって世界の日射量は大幅に減少した。これは地質学的に確認の取れている事実であり、更に中国や東ローマ帝国など世界各地の歴史書にも記述があるそう。日本神話において天照大神が天岩戸に隠れてしまい世界が暗闇に包まれたという岩戸隠れの伝説はこのことを指しているのではないかという説があるらしい。

 神話はこうして歴史的事実と照らし合わせて考えると俄然面白くなる。できれば一生こんなことだけ考えて生きていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?