遠山美都男『天智と持統』講談社現代新書

・『古事記』の描く「古代」と『日本書紀』の描く「古代」は異なる(神野志隆光)。
・一般的に、蘇我氏が滅ぼされた原因は、天智天皇と藤原鎌足による中央集権国家建設の障壁になるとみなされたからだと説明されるが、彼らがそのような構想を持っていたとは『日本書紀』で言及されていない。
・乙巳の変は王政復古ではなく、史上初の生前譲位をめざした政変だった。政変の主体は孝徳天皇と支援者の蘇我倉山田石川麻呂ら。
・『日本書紀』の中で、中大兄皇子が「大化の改新」に積極的に関与したとされるのは、孝徳天皇に所有する部民などを献上したことのみ。
・『日本書紀』が描こうとした天智天皇は、「天命」を受けて軍事力で「王政復古」を果たした「王朝中興の祖」であるが、早い段階で「奸臣」(=天智天皇の5人の閣僚)によって王朝が衰亡してしまったというもの。
・このような天智天皇像を必要としたのは、娘の持統天皇だった。
・『鎌足伝』が描く7世紀には孝徳天皇の「大化の改新」は存在しない。それは天智天皇が行ったという認識になっている。
・天武天皇の諱である大海人はあまり権威が感じられない。異質な存在である海部によって養育されたことから名付けられた。海部は天皇に海幸を献上する臣下の集団であり、「大海人」は天皇となるべき人物に適した名前ではない。
・『日本書紀』で天智天皇の王朝の危機が強調されたのは、天武天皇と持統天皇が権力を不法に奪取したことを隠蔽し、天智天皇から正当に権力を継承したと主張するため。
・壬申の乱の記述は文武天皇以降に書かれたが、天智天皇の記述は持統天皇の時代に書かれている(森博達)。
持統天皇が夫よりも父の天智天皇を称えなければならなかったのは、武力による権力簒奪において夫の天武天皇と共犯関係にあり、即位の正当性を必要としたからである。

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