元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年

・奈良時代、律令制下では指揮官にも官僚制の原則が適用。武士は武芸に優れた一般官人を指していた。しかし、政争の激化に伴い専門的な軍事知識が必要となり、坂上氏のような武門も現れた。p9
・平安時代になり、武芸を家風として軍事的な官職を歴任する一族を軍事官僚と称する。p12 しかし、後の軍事貴族とは異なり、未だ兵の家という性格が十分に確立されていなかった。一族から文官を排出したり世襲したりする。p13 また、上から付与された武門としての性格と承平天慶の乱以降の貴族社会の変容により、没落あるいは文官への転身を余儀なくされた。p17
・9世紀後半、外圧が消滅するとともに律令制が衰退、解体へ。律令軍制は消滅。反国衙闘争を行う富豪層の武装集団、「党」の蜂起が問題となってくる。p22
・騎兵あるいは船を利用する高い機動力を持ち、騎射を中心的な戦闘形態とする武装集団が各地に出てきた。輸送業者が武装集団を形成したのは、自衛手段として武装したため。p24 これに対処するため、国衙は地方豪族の一部を国衙の武力として組織化していった。押領使など。p25
・平高望以下平氏一門は東国に下向。京の政界と関係を有し、中央貴族が任ぜられる官位を得ている。辺境軍事貴族。一般の富豪層や郡司等とは大きく異なっていた。p32
・王臣家人としての権威と武力を有する辺境軍事貴族の分立によって、坂東の国衙はますます弱体化。豪族どうしの抗争を抑圧調停する機関が消滅した。自力救済へ。p35 職業戦士の性格を有して兵の家として確立し、地方豪族らも組織化されていった。しかし従属する武力の大半は農民的性格が濃厚であったと考えられ、中世武士団への過渡期。p44
・承平天慶の乱鎮圧に際して、朝廷は有力軍事貴族、諸家兵士、諸国兵士を大量に動員した。鎮圧とともに解体されず、中央における兵の家、軍事貴族が成立した。p55
・摂関家時代、藤原忠平以後の政治中枢は天皇のミウチにより独占。一族が政治を掌握しているので、独自に有する経済的軍事的基盤は小規模。支配層の分裂が克服され、武力は衰退していく。また、入内競争等の宮廷内陰謀が政争の中心であり、軍事貴族を組織する必要まで至らない。臨時の警護程度にしか利用しなかった。摂関時代の軍事貴族は必要に応じて、上流貴族に起用される傭兵的な立場。p61-
・東国では依然として自力救済が貫徹していたため、将門の乱後も兵乱が続く。豪族たちの所領との結びつきは弱く、まだ本格的な武士団の成立はなかった。p73
・河内源氏については、中公新書参照。
・治承3年以降、平氏が一門や有力家人を投獄の国司に補任したため、東国の豪族は圧迫を受けていた。また、武士どうしの争いを平氏は調停せず、むしろ煽ったりして平氏への従属化を目論んでいた。p193
・清盛の「私郎従」と言われる大庭景親と隣接している三浦・中村の武士団が危機感を強める。上総の伊藤、常陸の佐竹といった平氏家人と対立する千葉・上総介氏も存立の基盤を脅かされていた。源氏一門も各地で追い詰められたため、反平氏の地方武士たちと協力して蜂起した。p194
・平氏は特定の武士のみを強固に把握し、他の武士を公的権力によって統率するという京武者的な性格を克服できなかった。独自の軍事組織ではなく、既存の国家権力を掌握する政治姿勢をとったことが、急激な内乱を惹起した原因。p196
・平氏との戦闘を通じて成立した鎌倉幕府は、武士団どうしの対立を克服し、紛争を頼朝が一元的に調停する体制を築いた。所領と武士は不可分。戦闘による恩賞として所領の獲得が保障された。このため幕府はきわめて攻撃的で好戦的な武装集団となった。p199

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