仁藤敦史『女帝の世紀 皇位継承と政争』角川選書、2006年

本書は女帝中継ぎ論と藤原氏陰謀史観へ疑問を呈し、個別の権力争いではなく、奈良時代を通じた政策的課題を追求するもの。


・光明子立后の意義は、皇后執政権による天皇補佐にあった。(女性太上天皇の役割に等しい)

・広嗣は軍団兵士制を廃止するなど、対外的防衛を怠った聖武天皇を批判している。大宰府の実質的な責任者として、聖武天皇の弱腰を批判したといえる。橘諸兄に対する権力闘争ではなく、新羅との緊張関係を背景とした国政における立場の違いから理解。

・養老継嗣令第一条「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ<女帝の子も亦同じ>」という規定は、女帝が男帝以外の男性と結婚し出産する可能性を視野に入れている。

・天智天皇の「不改常典」は、それが述べられている宣命を読むと、「男子による直系継承」ではなく、一貫して前天皇の意志による譲位のことを示している。

・元明天皇や元正天皇の即位に立太子が必要とされないのは、皇統譜に「ミオヤ」として表現されたからである。この二人は中継ぎではなく、「ミオヤ」として父子直系関係と同格に位置づけることが可能。

・元正天皇は結婚しないことを強制されていたとは言えない。結果として独身だった。女系への継承を防がなければならないとしたら、継嗣令第一条と矛盾する。元正天皇は天皇ではない草壁皇子と結婚した女帝(元明天皇)の娘であり、広義の女系継承と考えられる。文武天皇の姉だからではなく、女帝の子として即位したという正当性。元正天皇が未婚であったのは、文武天皇の擬制的な皇后としての立場に配慮したものと考えられる。

・孝謙天皇も、擬制的な婚姻関係として道祖王や淳仁天皇、道鏡の皇后格として表現されている。

・聖武天皇の政権は王権強化のためポスト壬申の乱秩序を改革しようとした。例えば、内外五位制の施行により中央豪族の相対的地位の低下と地方豪族の中央官人化を行った。藤原氏以外の多くの畿内貴族層は従来の既得権益から大幅な後退が余儀なくされた。長屋王はこうした政権の政策に反対していた可能性があり、これが長屋王の変を引き起こした。変において元明天皇の死去時以来、二度目の固関が行われており、長屋王と東国との結びつきが推測される。「左道」はまじないではなく邪道という意味。

・主要な官職を藤原氏が独占したことは陰謀論だけは説明できない。支配層全体が、壬申の乱後から脱却し、天皇の絶対的地位の確立と官僚制の成熟化を目指した結果である。天武皇親の無力化と東国への律令支配の徹底化は、支配層のもとで藤原氏が手動した路線と考えられる。


※長屋王の変で新しい秩序が旧い秩序に勝利したということ。

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