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中世の仏師メモ

※勉強のためのメモにつき不完全。『日本仏像史』美術出版社を参照

12世紀後半
京都に根拠を置く院派・円派が貴族の信任を得て勢力を誇っていた。
奈良・興福寺に所属する慶派(平安中期の名匠定朝の系統)はこの頃ふるわず。

運慶

父康慶とともに戦乱で荒廃した奈良諸大寺の復興、造仏に尽力。
運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、院派・円派に劣勢だった情勢を逆転させる。
康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌、堂々たる体躯、深く複雑な衣文線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平以来の彫刻の古典をその作品に総合。

円成寺大日如来像

願成就院阿弥陀如来坐像・毘沙門天立像

文治2年造像。北条時政が奥州征伐を祈願して願成就院を建立。
一部に平安末期の奈良仏師の作品の延長が見られるが、まるく張った頬とたっぷりした顎、重量感あふれる雄大な体躯、深く彫られた奔放に乱れてうねる衣文の趣は、平安後期の作品とは隔絶。
毘沙門天立像も、腰高で運動感を強調した姿で、表情は現実感に富む。
ここに鎌倉時代彫刻が成立していることがわかる。

新様式の誕生は東国武士の発願による造像であったことが大きな影響を及ぼしている。中央の造仏規範の制約がなかったと考えられる。

六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像

堂々たる体躯や流動感に富んだ衣文が願成就院阿弥陀像によく似ている。

浄楽寺の仏像

阿弥陀三尊、不動明王、毘沙門天の組み合わせ。
技法的進展が見られる。仏菩薩の格調を保つため、仏菩薩像は彫眼、明王以下の尊格の仏像は玉眼と表現法を区別。

慶派は建久年間以降、東大寺大仏殿院の一連の造像に携わり、造仏界の中心となる。
彫刻製作の技量と一種の政治的手腕とにより一門は台頭していった。

建久8年から9年、大仏師として東寺講堂諸像の修理に関与。いずれも僧文覚の勧進による事業。
この頃の作品 高野山金剛峯寺八大童子立像
いずれも幕府関係の事績
他方、京都の貴族にも起用されている。

東大寺南大門金剛力士立像

建仁3年。運慶は快慶とともに阿形を分担したが、吽形分担の湛慶・定覚の製作を指導したとみられる。このため、吽形に運慶の作風が色濃く出た可能性がある。
この事業により奈良仏師系統の仏師として初めて運慶が法印にのぼった。

興福寺北円堂再興時の造像。運慶は惣大仏師として全体を統括。

興福寺北円堂弥勒仏坐像

古典に学んだ要素が整理統合されて独自の緊張感に富んだ構成。肉付けを控えた体つきで、ふところを広く取り、頭部をやや前傾させた自然な姿勢により、像の存在する大きな空間を意識させる

興福寺北円堂無著像・世親像

古代インドの兄弟学僧の肖像。
滋味に富んだ表情、大づかみな深い衣文、巨大な柱を思わせる雄大な体躯は写実を超えた実在感

晩年の本拠は京都。最晩年の造像は幕府関係で占められている。

鎌倉時代の彫刻

  1. 古典作品に準拠した製作態度(典拠主義のようなもの)

  2. 造形の対象をありのままに再現する写実主義。肖像彫刻の発展

  3. 材質の多様化。金銅仏がかなり増加し、銅の質感を生かした作品




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