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浅倉透と「政治」

 アイドルマスターシャイニーカラーズの浅倉透のコミュでは度々政治に関するモチーフが登場する。例えば「かっとばし党の逆襲」のサポートイベントのタイトルである「われらはつくるわれらのりゆう」は自由民主党の党歌「われら」の歌詞の「われらは創る われらの自由」のパロディである。また「チョコレー党、起立!」のサポートイベントのタイトルである「コーン総裁」「総括せよ!」は前者が自民党総裁を、後者が連合赤軍を代表とする左翼セクトにおけるリンチの掛け声のパロディであることは明白である。
 加えて、浅倉透はTwitterにおいて、「ハウス・オブ・ガード」と思しきドラマを見ていると発言している。

 浅倉透のコミュにおいて、なぜ度々「政治」が表現されるのだろう。より明確にいうとシャニマスの運営側はなぜ浅倉透のコミュにて政治をパロディ的に描くのだろうか。無論、それは単なるシャニマスというコンテンツの趣味といえばそれまでである。浅倉透のこれまでのコミュは政治以外にも映画に関するオマージュを出してきており、これらの演出は、うるさ型の、少し知的で文化的なことに関心があるユーザーを満足させるための、高踏的演出の一種である、と突き放した言い方もできる。正直に言って私はこのような浅倉透に関わるコミュの技法があまり好みではない。衒学的かつ「サブカル的」過ぎて、読むと作者の自意識を読み取ってしまい、胃もたれがするからである。
 さりとて、仮に浅倉透における政治の表象が運営側、シナリオライター側の「手癖」の域を出ないとしても、政治というそれ自体が論争的な概念をわざわざマス向けの娯楽作品であるアイドルマスターシャイニーカラーズに登場させることの意味を考える意義は差し当たり即座に退けられるものともいえない。それはシャニマスのためでなく、政治のためである。
 この謎を解き明かすに当たって、浅倉透が登場する個々のコミュを読み解くことが重要であろう。

1. 「かっとばし党の逆襲」


 前述のイベント名で知られる「かっとばし党の逆襲」では浅倉は樋口円香と共に自主練に励むことが主題となっている。

「かっとばし党の逆襲」、第一話「おもいこんだら」より

 しかし、練習は思うように上手くいかず、浅倉は思い立ち樋口と共にバッティングセンターへ行く。

同上

 そもそも野球というスポーツ自体、日本政治の文脈から見ると少し特異なところがある。野球は近代日本では相撲に次ぐ「第二の国技」に位置付けられる。プロ野球の各チームはその本拠とする地域、都市のアイデンティティ形成に少なくない役割を果たしたことは周知の事実である。また今日のプロ野球を形成したのは正力松太郎や渡邉恒雄といった戦後日本政治の重大人物である。安保条約改定への反対運動が最高潮を迎える中、岸信介が放った「野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」なる発言は戦後日本政治のある面の真理を突いたものとして今日にまで記憶されている。同時に発言の対象がサッカーでもテニスでもなく野球であったという事実が、近代日本における野球というスポーツが置かれた特殊なコンテクストを浮かび上がらせている。

同上

 流石にこのカードで野球を登場させた意味から政治的なものを読み取るのは穿った見方かもしれない。しかし、上の台詞に代表される、浅倉と樋口が執拗に「右」へのステップの練習を繰り返している描写は、明らかな政治のオマージュである。イベントの名前を含めた、政治への入り組んだ言及を通じて、華やかな舞台の裏側で自主練に励む浅倉透と樋口円香というアイドルを描いたのが「かっとばし党の逆襲」である。  

2. 「チョコレー党、起立!」


 「かっとばし党の逆襲」から一年あまりして登場した「チョコレー党、起立!」において、政治の暗喩はイベントのタイトルにのみならず、本編でも一層濃厚になっている。カード内のイベントである「コーン総裁」では浅倉透がスープの中のコーンを救えない様子が描かれ、「総括せよ!」では彼女が反省文を書く光景が、「要返還対象者総覧」では彼女がもらったバレンタインのチョコレートを名簿で管理している様子が描かれている。その上で、このカードでは作中で広告代理店の男が言った「一網打尽」という言葉が、日常の断片的な連なりに連続性とテーマを与えている。
 本カードのエピソードを特徴を簡潔にいうと、それは他者から贈与された物品を数字を通じて管理し、ルールによって他者を規律するという行為の執拗な描写である。そして、このような資源の分配と他者の規律こそ、例えばD・イーストンにおける「社会に対する諸価値の権威的配分」という政治の定義の、最小化された形である。管理の必要があるほどの贈答品は、その人に名望が備わっている証左であり、これを盟友の樋口の助言に基づき、管理している様子は、例えば前近代中国の朝貢、あるいは戦後日本における陳情政治を彷彿とさせるところもある。

「チョコレー党、起立!」、「要返還対象者総覧」より


 いずれにしろ本カードのタイトルと内容は密接に繋がっている。「チョコレー党、起立!」が描こうとしているのは紛れもなく政治である。このように断言しても、過剰な深読みとはいえないだろう。

3. 「かっとばし党の長い夏」


 次に「かっとばし党の逆襲」の続編的カードである「かっとばし党の長い夏」において、政治的モチーフの登場は「逆襲」を踏襲しながら、政治における直接行動をクローズアップしたものとなっている。
 言うまでもなく、本カードにおける「長い夏」とは「日本のいちばん長い日」が元ネタである。「ファイトクラブ」や「太陽を盗んだ男」を登場させる浅倉透のコミュにて、長い夏という単語が意味するものは一つの映画作品しかない。「日本のいちばん長い日」は後半、降伏に反対する青年将校らが皇居を占拠し、玉音盤を強奪しようとした、宮城事件が描かれている。本作は前編と後編の場面転換を通じて、会議と暴力という政治における二つの要素を共に描くことに成功しているのは周知の事実である。一方で本カードでは事務所から出ようとしないカマキリの描写を通じ、宮城事件や二二六事件、あるいは三島由紀夫の自決事件、さらには安田講堂事件やあさま山荘事件など、近代日本の占拠事件がモチーフとして登場している。

「かっとばし党の長い夏」、第二話「たぶんお盆前くらい?」より
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同上 
※恐らくこれは市ヶ谷における三島由紀夫の「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ」という演説のオマージュである。

 本カードでは夏休みの宿題を浅倉透がまだ終わらせていないことも描写されている。宮城事件にしろ三島由紀夫の自決にしろ、これらの政治行動は遂には成功せず、失敗した「革命」として今日記憶されている。夏休みという一時の夢まぼろしが宿題という「現実」の到来を通じて辛くも崩壊する─「かっとばし党の長い夏」が描くのはそういった敗北した「革命」のノスタルジーである。

4. 「アジェンダ283」

 簡単ではあるが、ここまで浅倉透のカードにおける「政治」の表象を辿ったが、そもそも浅倉透という人間が政治に対してどのような考えを有しているのかという疑問がここまで来ると、当然浮かんでくる。単に政治的に無知であれば政治的無関心であることは容易い。が、少なくとも日本政治の特徴的な事件や概念を、オマージュとして会話の中で用いる程度には既知のものとしている浅倉が政治に対してなんらかの定見を有していてもおかしくはない。
 しかしながら、浅倉は例えばSDGs、環境問題を取り扱ったイベント「アジェンダ283」にて、清掃活動は行わず、休憩し、動画を見ていた。これはSDGsや環境問題に強い関心を示した有栖川夏葉や、そのようなポリティカルコレクトネスに冷ややかな黛冬優子とは対照的である。有栖川や黛はその立場に差異があるとしても、政治的な問題─ここでは環境問題─に関心を持ちなんらかのオピニオンを述べるに至っている。が、浅倉はそもそも政治的な問題に関心を示していないのである。キャラクターの政治的立場をアイドルマスターにて詳細に描くことが言うまでもなく困難だとしても、その非政治的な態度が浅倉透というキャラクターを大きく特徴付けていると言えよう。つまるところ、彼女は政治の重大性を熟知しながらも、そこから「あえて」離れているのだろう。

イベントシナリオ「アジェンダ283」、第二話「大きなヴィジョンを持ちましょう」より
同上
イベントシナリオ「アジェンダ283」、エンディング「今日を終える前に」より

 恐らく、このような「非政治的」にして政治的知識が豊富なキャラクター造形が可能なのは浅倉透が未成年であることに由来している。有栖川にしろ、黛にしろ彼女らは既に成人し、選挙権を有している(はず)の年齢である。参政権の有無が個人の政治的活動の自由を制限するわけではない。けれども、選挙という否応なく党派性を帯びた、国民的な「祭典」に参加することを所与の前提とする18歳以上の人間(※少なくとも日本国内では外国人や受刑者はこの限りではない)が政治的な無関心を貫くことは、単なる無責任であるとの誹りを受けかねない。されど、選挙権を有さない未成年は選挙権を持たないが故に、政治という営為から切り離されている節が今日の日本にはある。政治的自意識の形成途上にある彼らが政治的無関心を行動や発言を通じて示すことはむしろ当然のものと解釈され得る。ノクチルが清掃活動を放っぽり出し、缶蹴りに興じるのが嫌味にならないのはこういった未成年の置かれた文脈があって初めて成立するからである。メンバーに成人がいる放課後クライマックスガールズやアンティーカ、アルストロメリア、シーズ、コメティックではこのような描写は構造的に難しいのではないか。

5. 「Landing Point」

 未成年が「非政治的」でいられるとしても、当然時間の経過によって年齢を重ねていけば、成人となり、子供は大人となる。彼ら新成人は完全な行為能力者たる市民として、その責任を全うすることが期待される。
 また成人にならなくとも、その前段階において、これまで政治的無関心を貫いていた子供が政治的な問題に関心を有するようになることは当然あり得る。それが常に注目を集め、社会に対して「インフルエンサー」という形で影響を与えるアイドルなら尚更であろう。
 このような政治的自意識の発達をめぐる葛藤を描いたのが浅倉透のLPである。
 アジェンダ283から恐らく時間が経過し、既にアイドルとして一定の地位を確立しつつある浅倉透を描いた透LPにて、彼女はデベロッパーの広告の仕事を引き受ける。そして、浅倉は自らが深く考えずに引き受けたデベロッパーが自らが日常的に通う映画館を取り壊そうとしていることを知る。地形を変形させ、馴染みの建物を破壊し、新たな人工物を作り出す都市開発、デベロッパーという事業─古来、権力の所在を最も人々に理解させる役割を果たした政治的装置は建築である─に自らが関与しているという事実は、有名になるにつれ起きる様々な制約とも合わさり、自己の社会的影響力の強さ、言うなれば自己の権力性を浅倉に痛感させる。もはや浅倉透は社会の構成員たることを要請される立場になったのであり、彼女が感じる「窮屈さ」とは社会の窮屈さである。この種の窮屈さは遅かれ早かれ全ての人々が感じることとなる。この経験の中において、人間は政治的自意識を形成し、初めて「市民」「国民」となる。

浅倉透「Landing Point編」、 「ラスト」より
同上

 かくの如き過程の一部を透LPは描いている。その上で、シャニマスは個々のキャラクターの「人間の生活」を描き切ることで、アイドルマスターというコンテンツに新たな文脈を、シナリオという表現手法を用いて付与しようとしているのであろう。言うまでもなく、キャラクターの生活を描くことこそがシナリオゲームとしてのアイドルマスターシャイニーカラーズの醍醐味である。浅倉透の場合、彼女が好む映画や購入する商品、あるいはさまざまな実在のものから影響を受けたセリフ、より抽象的に言えば、消費行動、経済行動を通じて彼女の自我と個性は表象されている。
 問われるべきは今後、透がこの課題にいかに取り組むか、いかなる人間として成長していくかという点である。しかし、ここに難問がある。それはシャニマスのキャラクターは歳を取らないことである。歳を取らない中で、つまり時間が進まない中でこれ以上成長を描くことは難しい。シャニマスはこの問いにどういう答えを出すのだろうか。


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