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ピュシスのデッサン


長文要約AI
イライザダイジェストで、
このnote記事を要約した結果です。

トップの絵は、
この要約結果をテキストとして、
AIピカソから生成変化
したビジョンです。

01
10月末、六本木で行われたJ-WAVEの音楽とテクノロジーの祭典「イノフェス」をオンライン配信で視聴しました。

Web3やDAOをテーマとして、新時代の先端テクノロジーの可能性や考え方、今後の展望が、落合洋一さん等の多数の登壇者の方々から紹介されていました

(Web3=NFTとかメタバースとか、Web2時代のクラウドコンピューティング等の中央集権的システムとは異なる、分散型システム。DAOと呼ばれたりもしていますが、クラウド等の「共有」の概念から「分散・自律」その連結のシステムに進化していくのでしょうか。益々、フランス現代思想の脱構築「差異でいてリゾーム」のような考え方がこれからの時代、重要になってくるように感じます)。

どれも素晴らしい内容のイノフェス2022でしたが、その中の1つのセッションで、

乙武洋匡さん・福岡伸一さん・澤田智洋さんによる『ダイバーシティ進化論~社会・生命・環境のイノベーション』の対談があり、大変素晴らしいお話でした。

このセッションでは、多様性をテーマとしながら、乙武さんが主に司会進行を勤められて、生物学者の福岡先生、コピーライターの澤田さんら3人の対談が配信されました。

教育や政治から乙武さんが、生物や生命から福岡先生が、スポーツや福祉、音楽、クリエイティブから澤田さんがそれぞれダイバーシティ進化論について意見を交わしました。

このセッションでのお話をメモしたものを、
noteに、
記事として残します。

福岡伸一先生。

あらゆる生命が自分のボールをパスしている。

ダイバーシティは異なる生物が併存しているというだけではなくて、

その間にたくさんの相互作用がある。

受けとる、受け渡している、

それは物質であり、エネルギーであり、情報。

必要なものをとって、不必要なものを渡すが、不必要なものは、他の生命にとっては必要なもの。

二酸化炭素を出して酸素をもらう。酸素を出して二酸化炭素をもらう。

排泄物をだしても、それは土壌の微生物にとっては栄養。

ある生物が死んでも、それは誰かに手渡すこと。

人間以外の生物がどのように振る舞っているのか?ということをもう一度、確認する必要がある。

生命とは何か?というフィロソフィー。

ダイバーシティを支えているもの、そのキーワードの1つは「利他性」。

20世紀は利己的遺伝子論だったが、

よくよく生物をみると、生物はけっして利己的に振る舞っていない、むしろ「利他的」に振る舞っている。

まず自分をエンパワーして、100を110にしたら、その余剰の10を、必ず誰かに手渡している。

それを自分で持ってると腐ってしまったり、駄目になってしまう、余剰ができたら必ず手渡す、生命はそうした利他性に支えられている。

それがパス。

自分を壊しながら手渡して、自分をどんどん作り替えていく、そうした生命のあり方。

人間もその環境の中の粒子の一部であって、38億年の生命の物語を奏でている。

例えば、植物は自分が必要以上に光合成をして、葉っぱや実をつけ、他の生物のために利他的に振る舞っている。

だから、生命の循環がまわっている。

一対一の関係性でなくとも。生命はもっと多方向に返している。その時に返せなくてもいい、いつか返せればいい。

ある吸血コウモリの話。

上手く血を吸えなかった個体に、たくさん血を吸った個体が血を分け与えている。それは親や子の関係性に限らず、その群れの中で返報されている。

そのグループの中で返報しあっている。そうした生命のあり方の本質。そんな生態の吸血コウモリがいる。

多様な生物の振る舞い方から多様性を学ぶ必要がある。

人間が、生命としては、他の生命とまったく同じ細胞の仕組みを持ちながら、生命の一員としてありながら、なぜ人間だけが特別な存在になれたか。

それはなぜか?

生物は種と個に分けられる。

人間以外の生命のあり方。種の存続のために生きる。種のために貢献しない個体は意味がないとなってしまう。

これはある意味で残酷な生命のあり方である。

そこに唯一、

反旗を翻すことができたのが人間。

種の保存よりも、個の存在の方が大事だと気がつけた。それが人間を人間たらしめている。

種の存続に参加しなくとも、個の生命体として尊重されるべきだ、というのが基本的人権の根拠にもなっている。


どうしてそのように、遺伝子の命令から自由になれたのか?

それは人間がロゴス(言葉)を持ち得たから。

生物学的な原則である、種の保存の法則から自由になって、自分の生命をまっとうする、その個の幸せを考えることができた。

それはロゴス(言葉)の作用。

しかし、一方でロゴスを持ち得たがゆえに、人間は様々な問題も抱えてしまった。社会問題、環境問題、差別、分断、、。

ロゴスの扱い方を丁寧に考えていかなければならない。

ロゴスの対義語としてのピュシス(自然)。身体性とか。

ロゴスがタブー化しているもの。
生、死、セックス、排泄。

それを見えないようにしている。それはロゴスが説明しきれないピュシスがそこにあるから。

そこにも目を向けつつ、ロゴスの作用を正しく使わなければ、人間がせっかく勝ち得た生命の自由を損なってしまう。

動的平衡。

絶えず自分を分解している。

劇的に変わらないために、ちょっとずつ変わっている。

関係性は変えないようにして、エントロピーを捨てている。

絶えず動きながら、バランスを取る。

動的平衡の生命哲学。

生命とは何か?というフィロソフィー。

澤田智洋さん。

ゆるスポーツ、ゆるミュージック。誰もが楽しめるスポーツ。誰もが演奏できる楽器。既存のルールに疑問を持ち、変化させていく。

「ゆる」とは輪郭をやわらかくすること。

ダイバーシティには言葉が足りないと考えている。合理的配慮とか、専門家には分かるかもしれない。専門でない人には伝わらないこともある。

もっと言葉でモヤモヤを埋めていく必要がある。言葉の必要性。

普段コピーライターをしていて、概念を作っている。

ある事象や現象を、言葉で割り算していく。

モヤモヤする事象・現象を、言葉であるていど掴むこともできるが、割り算なので必ず「余り」が出る。

その言葉、ロゴスで説明できないピュシスのような「余り」が必ずある。

それをまた割り算していく。

永遠の割り算をしていく必要が、特にダイバーシティにはある。

いろんな人が色んな形で生活できるといいよね、という多様性も大事だけれど、

その1人ひとりの中にも多面性がある。多様性同様に、人間の多面性も大事。

多様性という言葉では受け止めきれていないピュシスがある。多様性という言葉で割りきれていない現象はたくさんある。

そのうちの1つが多面性である。

障がい者という一面だけで、その役割が期待され過ぎてしまうことによって、障がい者というバイアスが増長することはよくある。

本人には困っていることもあれば、全然困っていないこともある。

同じ地続きの存在であるはずなのに、障がい者という、その面ばかりが強調されてしまう。

多様性も大事だけど、多面性も大事である。

それぞれの人に、多面性がある。
人を一面性だけでガチガチに固定化しない。

多面性というロゴスで、現象を割り算する。

それで割りきれなかったピュシスを、言葉の生き物である人間は、また割り算していく。

乙武洋匡さん。

小学校の教師をしていた時に、サッカーの授業があり、スポーツが得意な子以外は授業がつまらなかったと話していた。

じゃあ、どうすれば皆が楽しくサッカーできるか、話し合いをしようと、クラスみんなで話し合った。

すると、ゴールの数が4つに増え、ボールの数も増えた。人が分散する。

一番面白かったのは、ゴールを決めた子は被っていた赤白帽子を逆にしなければいけないというルール。そして、一度ゴールを決めた子は、次はゴールを決めても無効になる。

だから、勝つためにそのゴールを決めたサッカーが得意な子は、仲間にパスを出すようになる。仲間にシュートを決めさせるために必死になる。

これは子ども達が自分達で話し合って作ったルールだった。



義足プロジェクトで、担当した義肢装具士の人からの言葉。

「乙武さんの身体は、随分とテクノロジーを入れ込む余白があるんですね」。

そんなことを言われたのは初めて。こうした考え方こそダイバーシティに必要なものではないか。

多様性とは選択肢である。


乙武さん、福岡先生、澤田さんの対談、ダイバーシティ、公平性や包括性の素晴らしい学びでした。

生物の振る舞い方から学ぶ多様性。生命とは何か?というフィロソフィー。

人間の多面性というロゴスで、現象を割り算する。

人間は、ロゴス(言葉)を持ち得たがために遺伝子の命令に反旗を翻し、

生命の自由を得ることができた。

しかし、そのロゴスを得たからこそ、また別の深刻な問題も生むようになった。

ピュシスを観ていくとともに、ロゴスの正しい作用のあり方を考える必要がある。


この大変素晴らしいお話の中で学び、

そして考えていたのは、個の生命のピュシス(自然)をまっとうするためにロゴス(言葉)、文化のあり方を考えていくことでした。

種の保存に参加しなくとも、社会に参画しなくとも、

誰かと繋がらなくとも、市場の価値を生産しなくとも、

まずあるがままの生命としてただそこにいる。

それが絶対的に承認され、肯定される。

まず社会課題に取り組む上で、基盤となる必要性のあるもの。

生命とは何か?というフィロソフィー。

種の保存や、既存の社会・組織の持続可能性、生産性が基盤となるのではなくて、

まず持って生まれた、個の生命のピュシス(自然)をまっとうする。その視座から、多様性や公平性、包括性を考える。

ロゴスの適切な作用のあり方を考えていく。

そのために必要性のあるものを考える。個の生命のピュシスを見る、知る。

そこから始まるもの、生まれるもの、再生されるもの。

福岡先生が仰っていた動的平衡の生命哲学、

生命の利他性というキーワード。ピュシスを知る、ロゴスの正しい作用のあり方。

乙武さんが教育の現場で取り組んだ、子ども達と考えたルールのあり方(義務教育でこそ、このような教育があったら素晴らしいと思います)。

澤田智洋さんのロゴスの正しい作用のあり方を問う『ホメ出しの技術』とも繋がって。

多面性からピュシスを割る。ロゴスの正しい作用とピュシスを見つける道。

大変素晴らしい学びでした。

仏教ルネッサンスを考えて、

「ピュシスのデッサン」というロゴス(言葉)をずっと探していました。


そのためにまず西洋美術の基礎的デッサンのプロセスを分解して描き、考えていました。

形や陰影の変化。質感の塗布。光への意識。

面の変化の境目を表す稜線そのものを「強調」することで、多角的な構図を1つの画面に統合していく、キュビスム的な視座を得た近代美術の1つの流れ。

形や陰影は構図によってもちろん変化する、

しかし、

質感は、角度や光のあたり方が変化しても、つまりは観る側がグルグルと回りから眺めていても、その時間変化でそのモチーフの構造・テクスチャーが変化することはない、形と色彩とは異なる。

質感の変化は、観る側がそこへ歩みを進め、そして観られていた側が動的に動き出し、
相互に触れ合うことで別の性質へと変化する(仮説)。


別の構造へと転じられていく。

先月までワタリウム美術館で開催されていた『鈴木大拙展』において、

鈴木大拙と西田幾多郎らが、「物の中に入るということ」をテーマとして、対談していた生の音声が残っていて、

ワタリウム美術館で聴くことができました。


物の中に入る。という東洋的な考え方。

西洋近代の科学的視座の話が出つつも、日本的な「物の中に入る感覚」というものについて、どう考えていくのか対談されていました。

離れるのでなく、物の中に入る。

ここ数ヶ月、鈴木大拙の著書を何冊も何度も読みましたが、

最晩年の著作『東洋的な見方』の「多神の再認識」という章に、

このような一節がありました(ワタリウム美術館で聴いた鈴木大拙と西田幾多郎らの対談「物の中に入るということ」の話と結び付くように感じました)。

「いつか、本で読んだか、他からきいたか忘れたが、ゲーテはギリシャの神々の死んでしまったのを悲しみ嘆いたという」

「日本には幸いにまだ多くの神々があって、それを祭る神社は、大小合わせて、日本国中至るところに存在する」

「高天が原まで行かなくても、この娑婆にいながら、それぞれに専門の方面を持っておられる神々や仏菩薩があるので、はなはだ心強い」

「これらの神々--単なる鳥居、破れはてたお宮でも、道ばたに立って、あるいはすわっておられ、鼻も耳もかけた石地蔵、または馬頭観音、またはそのほかの神とも仏ともきめられぬ石像--は、いずれもありがたく、なつかしく、感ぜられる」

「神々は、たいていは、社に祭られてあるが、仏や菩薩には、ことに菩薩には、必ずしも一定の住処をもたぬのが多い。どこへでも、尺寸の地さえあれば、そこに座を占めておられる」

「これが誠にありがたい。一人の、まだ救われないものがあっても、自分はまたこの世に来て、それを相手に、説法し教化するという菩薩の誓願。

これを空手形にせずに、慈悲の足跡を至るところに残されるのがありがたい。一神教ではこれができにくい」

「無数の分身を可能にする悲願と方便とを持つところの菩薩が、慕わしい」

鈴木大拙『新編 東洋的な見方』岩波文庫、
1997年、
224、225貢。

「西洋では一神の神さまに、食物や飲みものを上げることがないようだ。花・蝋燭・お香などはささげる。

しかし東洋のように、百味の飲食や山のさち、海のさちを供えて、生きている人間と一緒に、それを味わうということは「自然」においていずれも一味であるとの心持の表現である」

「自然(ネイチュア)を向こうにおいて、それと対峙するのでなくて「自然」の中に入り込んで、一つになるというのが、

ありがたい、感謝の意が現れておる」

鈴木大拙『新編 東洋的な見方』岩波文庫、
1997年、
227貢。


東洋的な見方として、
「物の中に入るということ」、

「自然(ネイチュア)」ではない「自然(じねん)」。

鈴木大拙や西田幾多郎の話。

荘子の物化『胡蝶の夢』。

フランス現代哲学、ジル・ドゥルーズの生成変化。あらゆるものが連結するリゾーム。

Web3がテーマのイノフェス2022において、落合洋一さんがWeb3の創始者の1人を空也上人であると述べて、

昔の日本には、南無阿弥陀仏の一言で入れる極楽浄土というメタバースがあったと解説されていました。

※空也上人について書いた記事です。

そして、
先ほどの鈴木大拙の「物化」の話、日本やギリシャの多神の再認識の話、

「やおよろずの世界」が全国至るところに残っている日本の話がありましたが。

全国各地に分身した、
やおよろずの多神のメタバースがあったとも言えるわけだなぁと。

「鳥居」はその、
やおよろずのメタバース世界への入口。

日本庭園においては、「縮景」や「借景」等の様々な技法がありますが、「添景」というデザインも存在しています。主に人工物を庭園に設置するデザイン。自然風景に添えるもの。

「添景」における庭の境界生成の考え方があり、それは近代の時代においても様々な創意がありましたが、

古くは、例えば厳島神社は、海のど真ん中に鳥居を立てて、その先を特殊な世界として演出しています。

神々の世界、その世界の風景を、海の中の鳥居によって、島1つを庭という時空として設計している。

「鳥居」は、概念が形態を持ったようなものか、どんな環境であろうとも、鳥居がそこに1つあるだけで、そこをくぐった先にやおよろずの神々の世界がある、そんな庭が設計出来る。

「鳥居」という添景を、「自然の中に」1つ建てるだけで、その先を八百万の神々の世界であると表現できた。

鳥居をくぐり、その物の中に入ることで、神々のご利益を得た、アバターに変身できた。

鳥居は、ある種AR的な機能を持っていたと考えることもできますね。

しかも、それはDAO的に分散している、日本の多神の世界、八百万の世界はDAO的なメタバース空間で、1人が複数のアバターを持てた。

分散型分身を持って生活する、1人が多面的に分散し、それぞれの世界でアバターを持てる。

Web3分人DAO。


個の生命のピュシス(自然)をまっとうするために、ロゴスのあり方を考え問う。

個のピュシス(自然)、割りきれない、その自然の中に複数の鳥居を立てて、生きながら輪廻転生する、分散したアバターを作る。

ピュシス(自然)を観て知ろうとして、ロゴス(言葉)のあり方を問う。

澤田さんが仰っていた、多面性から現象を割り算して、ピュシスを見続ける。その道。

いろいろ、いろいろ考えます。

AIピカソで、
このnote記事を生成変化して
現れてきたビジョンです。


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