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一点物と量産品


こんにちは。

私はアート&デザインを学んだソーシャルワーカーです。
いろいろと、ふらふらしながら福祉現場でケアの仕事をしてアート&デザインの研究をしています。どの研究機関にも所属していない市井の研究人です。


福祉現場で、障がいをお持ちの方や子ども達とアート作品の制作に取り組んでいて、最近考えていることがあります。

それはアート作品の「一点物」としての価値と「量産品」との関係です。この問いは、近代美術の発展のなかで、19世紀後半から20世紀前半のアート界でも1つのテーマとしてさまざまな人々に議論されたものですが現在のアートと福祉の流れにも深く関わると考えています。



近年アート&デザインと福祉の取り組みがたくさん起きていますが、アール・ブュリュットなど契機となった芸術活動もあります。


このような流れのなかで、19、20世紀の近代と呼ばれる時代において、巻き起こったアート作品の「一点物」と「量産品」の議論と、最近の福祉とアート&デザインの流れに共通するテーマを感じています。




一点物と量産品のそれぞれの価値。

近代美術の進化は、科学の発展とも深く関わっていますが、産業革命と科学の発展により、写真や映画などの複製技術が登場し、従来の芸術のような手仕事による職人芸的な一点物の価値は揺れ動くことになりました。


産業革命後の時代の中で、手仕事としてのアートを推進したウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツ運動も、機械化の流れには抗えず、19世紀20世紀と、機械化の時代にはやはりモリスの理想の実現は難しいものがあったと思います(わたしはモリスの理想に強く惹かれますが)。



そんな機械化と、芸術の複製技術が登場した時代において、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは著書『複製技術時代の芸術』において、アートの持つ一点物の価値と複製品(量産品)の持つ価値について考えを述べていますが、この問いは現代の福祉とアート&デザインの関わりにも繋がっているように感じています。



福祉にアート&デザインが関わって、世に発信され出して、制度も出来はじめている今の時代こそ、アート制作における「一点物と量産品」の価値について、もう一度考えていきたいと思うテーマです。


一点物を作る。

福祉現場において、アート作品を作るとき、さをり織りなどの伝統的で、素晴らしい、福祉現場で育まれている文化がありますが、さをり織りのコンセプトが「差異を織る」というものであるように、そこには人と違うこと、その人らしさを織る一点物としての価値があります。


さをり織りの一点物としての価値、たった1つしかないオリジナルの価値に私は強い魅力を感じます。どこにいっても、あんなに個性的で魅力的な織物はないです。差異を織るというコンセプトにも深く共感し、この文化を築いてきた方々を心から尊敬しています。


アートは人と違うことを受容してくれる。アートを通して、社会と繋がることができる。

福祉現場において取り組まれるアート制作は、やはり手仕事としての一点物の作品です。人と違っていい。むしろ、人と違うことに意味がある。かけがえのない価値がある。


そんな中で、アート&デザインを専門とする人達が福祉に関わることによって、その価値が社会において一般化され、広がり、美術として量産されていくことにより生まれるものとは何か?私は美術系のプロジェクトに関わる中で凄く悩みました。





量産品が生み出す価値としての「機能」

近代においては、複製技術により一点物が持つ芸術の価値が失われるとベンヤミンは述べていますが、ベンヤミンはこの複製技術に多様な市民参加の可能性を観ていたといいます。

そのような時代に、バウハウスの創始者ヴァルター・グロピウスは、複製技術により量産される芸術の価値を「機能」であると発信しています。


規格化され複製された量産品の連続や組み合わせにより、一点物の持つ個性的な価値は失われますが、複製された量産品を「連続させたり」「組み合わせたり」すること、つまり「デザインする」ことにより、その量産品の集合体には「機能」という価値が生まれる。グロピウスはこの時代の問いにそう応えていた。


赤レンガは、一点物として見れば、ある種の焼き物、工芸品としても見れる。ですが、機械生産は同じスケールの赤レンガを大量生産することができる。そこに、赤レンガの一点物の価値は失われる。しかし、そのスケールの同じ赤レンガを連続させ、組み合わせていけば、赤レンガは「壁」という機能や「住宅」という近代生活上の「機能」を持つようになる。

グロピウスとともに、バウハウスの校長も勤めたモホリ・ナギの著書に『材料から建築へ』がありますが、まさにこの時代にバウハウスが示した新しい生活の価値やデザインの考え方を、この本のタイトルはよく表していると思います。

材料(量産品)の連続や組み合わせにより、つまりその「デザイン」により、建築(生活の「機能」)が生まれていくというバウハウスの発信した考え方。このようなバウハウスの教育は、近代デザイン教育の基盤になっています。


ここで、近代建築や機能主義、モダニズムと呼ばれるものも生まれていき、もちろん近代建築の均質空間がもたらした功罪等は様々にあるわけですが、近代という時代においては、このような「機械による複製技術」が生む量産品が人々にもたらす価値を、生活の「機能」として発信していた。

そこにあったのは、近代化の中で生まれた市民の権利としての、自由や平等の意思でもあった。ベンヤミンは著書『複製技術時代の芸術』において、複製技術がもたらす「平等性」というものに着目しています。


権威的な機能ではなく、市民に平等に保障される生活の価値が機械技術により量産される。多くの人に、近代生活の豊かさが届く。この時代の新たな生活の価値には「平等性」というものがあった。


そして、これは現代の社会福祉にも繋がるテーマではないかと思うのです。社会保障制度は1人ひとりの意思に基づいた自由を平等に、公平に、保障することを目指していた。



現代は、PCやスマホ等さまざまなテクノロジーが発達して、これらのテクノロジーも多くの人が手にすることができている。


そんな時代の中で、福祉現場で育まれてきた様々な文化に、アート&デザインがアクセスし、連携する流れがあります。


この流れは、かつてバウハウスが発信したような新たな価値の提示をどのようにしていくことになるでしょうか。近代建築は、量産品が垂直に伸びて、垂直に伸びる均質空間が近代都市の風景を作り出しましたが、都市の市民の生活環境も、福祉施設の環境もこのような近代建築的な流れの先にあります。


現代のコロナ禍の中で、ダイバーシティ、SDGsと時代の問いもあります。また、日本の福祉、社会保障の問題は、急速に進む少子高齢化と経済のグローバル化による社会保障の給付と負担のバランスの崩壊、その平等性や公平性への問いもあります。

近代に問われた一点物と複製技術の生み出す価値への問いは、現代における福祉とアート&デザインの連携の流れの中においても、1つの視点として問われるものではないかと私は考えています。


どのようにして、新たな生活の価値観が一点物や量産品との関係性の中で育まれていくのか。

また、福祉現場におけるアートやデザインの取り組みと、1人ひとりの意思(その形成の機会を含め)に基づいた福祉が、社会と繋がりどのように展開していくでしょうか。

近代にバウハウスが今日のデザイン教育の礎を築いたように。現在の福祉の一点物とアート&デザインの連携は新たな価値観を作り出すと考えています。



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