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縁の下の「いぶし銀」しごといろ

縁の下の力持ち。

子どもの頃から、「縁の下の力持ち」という言葉、美学が好きです。

人の見えない所で懸命に働く。自分に光があたるわけではなく。自分が主役になるのでもなく、世のため人のため、目の前の人のため。

働く。

いぶし銀。

職人肌。

最高にカッコイイ色。

こういう人知れず働く、たくさんのカッコイイ人達の存在で、世の中は動いている。そうじゃないですか。

人知れず働く、

いぶし銀のあかり

内側から立ち上がる色彩。

自分が主役になるのでなく、現場で、目の前の人の幸せを真剣に考える。

スティーヴィー・ワンダーの『太陽のあたる場所』という曲がとても好きなのですが、

けっして、明るく陽気でもない、哀愁も感じる。けど、とても力強い唄。

僕がみんなを太陽のあたる場所へ連れていくよ、、と。

こんなアートに憧れます。

身体的かつ本質的な取り組み。

光のあたり方を考える芸術のあり方。



植物を育てる時、人が過ごす場所を考える時、、
陽あたりのことを考える。

それぞれ、生命がいきいきと、
あたたかく過ごせる場所かどうか。

庭も建築も、光のあたり方を考えて設計する。


目の前の人の生を輝かせる、いぶし銀。

ケアの職能も、

いぶし銀。

と感じます。


縁の下で人知れず働く。

かっけー色彩。

いぶし銀のしごといろ

しごと×十色=

コンセプト「しごといろ」

※障がい福祉のしごといろをテーマにした記事。彼らもさいこーに、かっこいい。「原寸大(あるがまま)」のしごと風景。


今回は私が最も尊敬している介護福祉士&ケアマネージャーを、

「しごといろ」をコンセプトに、

原寸スケール(あるがまま)でデザイン。

まだまだ調査が足りないけど、形にする。

かっけーポスターにする。


高齢者福祉現場のケア。仕事終わり、食堂にて後片付けをしている様子。

元はCAD等で図面を書き、大手企業でプロダクト開発をやっていた
介護福祉士&ケアマネージャーさん。


※他にもポスターいろいろとやってますが
(じつはこのnote記事に投稿しているのとは別に、
同じようなコンセプトで、現場のメンバーの皆の仕事風景コンセプトのポスター画を、
都内の福祉工房のプロダクトとしてデザインさせていただいていて、販売もしていたりしますが)、

この様々な福祉現場における
「しごといろ」のコンセプトでは、

文字等をレイアウトするよりも、

その風景から身体・姿だけを抽出して、
環境を想像・余白で伝える方が、

しごと色を伝えるのに適しているように感じています。

朝は早番で7時から働き、夜の20時ぐらいまで残ってることも多々ある。毎日のように。

夜勤だって夕方から翌日の昼まで働き、けど、仕事のあとも事務仕事で夜まで残ってる。

現場仕事に事務仕事に、最新の知見&技能の研修に、委員会の研究に。

医療福祉現場の人は、働きながら日々学習してくのがあたりまえなんですよね。

その疲れきった背中を伝えたいと感じます。心から尊敬。

この介護福祉士&ケアマネージャーさんは、自分が本当にやりたいこととは何か?を考える中でケア職に転身し、アート&デザインに理解ある医療法人で、介護福祉士、介護長&ケアマネージャーとして活動。

ケアって、アートなんですよね。

「ケア」という概念。

21世紀のアート。


ケア=新しいアートのとんでもない可能性。

ケアというと、

2000年の介護保険以降、お金で取り引き可能なサービス・商品として契約する、

ケアをする人、される人の、

一方通行の関係性、準市場原理的な介護保険のイメージが先行して、ケアのあり方が社会に広まることがあると考えますが、、。

もちろん、選択・契約型であること、、
本人の意思決定に基づいた選択は、大変重要なことだと考えますし、ケアの基盤になっていく必要性あるものだと考えます。

まず、社会の中での、ケアの必要性の、その社会保障における役割を果たすために、ケア現場の職員は、市民の血税から給与をもらっていることを忘れてはならないと考えます。

しかし、ケアの概念として、

「双方向の関係性」や「相互作用の創造性」から生まれる多くの可能性を考えていくことも、ケアという営みの本質を考える上で、、とても大切な視座であると考えます。

ご本人の意思で選択可能になっていくものを増やして、作っていくためにも。


※参考文献
●ミルトン・メイヤロフ著『ケアの本質』、1987年
●イヴ・ジネスト&ロゼット・マレスコッティ著『Humanitude(ユマニチュード)「老いと介護の画期的な書」』、2014年

「ケア」の概念とアート。

オバマ元大統領が年間ベストブックに選んだ、ジェニー・オデル著『何もしない』も、東洋哲学や現代哲学と結び付いたケアやアートの話でした。

『何もしない』というアクション。とても、
「ケア的」なのかなと思います。その人が立ち上がる道筋を見守ることの大切さ。

その人の意思決定と自ら立ち上がることを支える。

すぐじゃなくてよくて、段階的に、一歩づつ。

その人の人生の理解者として、何があっても、そばにいる。そのまずはじめの一歩。

人と関わりを持つ時、目の前の人のプロセス、物語を観ること、想像すること、大事ではないでしょうか。

ケアの思想。

現場の身体感覚に基づいた思想。

最も尊敬している
近代建築&造園家ローレンス・ハルプリンが
確立したデザインの方法論である、

今日のワークショップデザインの基盤となった
「RSVPサイクル」も
ケアと、とても似た考え方だと感じています。

R=resource・環境。。。。
S=score  ・楽譜。。。。。
V= valuacton・ 検証。。。
P=performance・演奏。。


RSVP順不同のプロセスをどこから参加してもよく、
一巡するなかで、
細胞分裂的に次のプロセスが生成される市民参画型のデザインサイクル。

※valuacton=ハルプリンの造語。

また、ケアと言えば今後最も必要になってくると考えている技能・哲学があります。

フランスのケア技法ユマニチュード
(人間らしさとは何か?を基盤においたケアの実践技能・哲学)においては、

その人が「立ち上がること」をケアすることから、ケアのプロセスが進んでいくようです。

※ユマニチュード。私は少し学んだ程度なので、もっと学習が必要です。とてつもない可能性を秘めたケアであり、アート。

先程の介護福祉士&ケアマネージャーさん
(実際は金髪ではありませんが
デザインとして)。

今度は、みんなとくつろいでいるとこ。

ユマニチュードの開発者イヴさんとも面識があり、

私もこの介護福祉士さんに
ユマニチュードの技能や哲学のことを教えてもらいました。 

人間らしさとは何かを問うケア技能・哲学、

その人が立ち上がることから始まるケア。


束の間の休息の場面ですが、座っていられる時間は5分もないし、常に緊張感のある中で仕事してる、ゆっくり休む時間なんてない、福祉や医療現場はどこもそうですよね。

本当に過酷な現場。心から尊敬。とんでもなく大変な中でも、笑顔を絶やさない、プロフェッショナルの姿勢を感じます。

具体的に「その人が立ち上がるための技能」として、技術と理論が確立されているのがユマニチュードの凄いところだと感じます。

イヴ・ジネスト氏が現場で、臨床で、長い年月をかけて開発した、

「人間らしさを取り戻す」ユマニチュードのケア哲学。

ユマニチュード、個人的にアートと結び付いて、注目したいことの1つは、

「複数の感覚を統合してケアする」、

「伝える(ケア)」であること。

例えば、食事の場面、認知症の高齢者の方でなかなか食事が進まない方はけっこうたくさんいらっしゃいます、

食形態として、一口大やキザミ、ミキサー、ソフト食とか、また温かいうちに食べられるようにと「食」の創意工夫は様々しますが、どんなに食の創意工夫をしても、

認知症の症状をお持ちの方の場合、食事の場面という認識をすぐに持つことが難しいことがあり、食事が進まないことがよくあります。

美味しい食事を食べられることの大切さ、、栄養状態が良好なることで褥瘡等の症状の治療や予防にも繋がる。

そこで、ユマニチュードでは、複数の感覚的刺激や情報伝達を通してケアをしていく、そういう考え方をする。

食事の場面ならば、「ご飯ですよー」という声かけ(耳・聴覚)は日常よくするわけですが、

この声かけと「同時に」、トントンと肩に優しく触れる(肌・触覚)。

※優しく触れすぎると性的な意味として伝わってしまう可能性があるため注意が必要であることまでユマニチュードでは解説されたりします。肩を優しくかつ少しの力を込めてトントン触れる。

さらに、この2つの感覚の同時多発アクションに加えて「見る(目・視覚)」が入ってくる、

肩をトントンする手とは逆の手でスプーンにご飯を載せて、その人が見える位置、目線にご飯が見えるようにする(視覚情報)。


「ご飯がきましたよ。炊きたての温かいご飯ですね。美味しそうですよ(聴覚)」「肩を優しくトントン(触覚)」「その人の目線へ(視覚)」。

これらの感覚的情報を連続性のあるケアのなかで「同時的に伝える」。

※一見あたりまえのことをしているように見えますが、多くの場合、連続する時間軸の中で、これらのアクションを連続的に同時的には行っていないことが多いものです(各感覚情報の伝達を、1場面において単独でやっていることが多くなりがちだったりします)。

感覚的情報を連続する時間軸の中で同時的に伝えることで、その人の意識が立ち上がり、食事に向かうことをケアする、

その人の認知・認識に「いまご飯の時間で、目の前に炊きたての美味しそうなご飯がありますよ」と、感覚情報の統合を通してお伝えする。

ユマニチュードの技能に基づくと、びっくりするぐらいご飯を今まで食べなかった方、口があかないことの多かった方の口が開き、

ご飯を召し上がっていただけることがよくある。他のケア場面でもそうです。

「社会的には」自閉症と呼ばれる特性をお持ちの方の場合は、環境=時間と空間の認識に独自の見解と関わりを持たれている場合があるので、1日の時間軸、スケジュールをお伝えすること、1日の時間の見通しがつくこと、またそのスケジュールになるべく大きな変更のないことが大切になってくることは現場の知見でよく言われていますが、

これらの時間軸、1日のスケジュールの、そのタイムライン上にも「複数の感覚的情報の同時的統合」の創意工夫が活きてくるように感じています。1日の見通しを複数の感覚的情報の統合でお伝えしてみる(複数だからといって複雑な感覚情報なのではなく、1つひとつを分かりやすく連続的に統合する)。

ケアのタイムライン上に、五感的刺激、身体感覚的なキーを設置し、デザインする。

ケア・シークエンスデザイン。


そして思うのですが、

これはもしや、、、
ケア・キュビスムでは?、、と。

芸術の大革命キュビスムと親和性の高いケア。

キュビスム(多視点印象の「1画面での」「同時的な統合」、もちろんこれも仮説ではあります)。

ユマニチュードの研究方法も、実際のケア場面を様々な側面から記録して、分析するらしいですし、まさに分析的ケア・キュビスム?

そこから現在は、感覚的な統合的ケアキュビスムに達しているということでは、、、。

ケアの世界にこんな凄い技能と哲学がある。

学ぶ選択肢しかないですね、私は、ですけど。

イヴ・ジネストさん、ロートレックの出身地である南フランス、トゥールーズ地方が地元の方。元はスポーツが専門の方ですが、アートの理解も深いのでしょうか。

ケア・キュビスム。

もちろん、これらの知見や技能が絶対なのではなく、それを学び踏まえた上で、目の前の人との関係性、現場の事情含めて、現場感覚における試行錯誤、創意工夫が一番大切なのだと思います。

ユマニチュードも、人間らしさとは何か?という哲学にもとづいて、お互いが理解しあっていくために創意工夫する、丁寧なコミュニケーションをしていく、そのために必要なケアのあり方を問うものであると考えます。

1つひとつの物事、1人ひとりそれぞれに様々な背景がある。

認知症の高齢者の方、
社会的に知的障がいと呼ばれる特性を持った人へ、

特にユマニチュードは期待されて
いると言われますが、

コミュニケーションが難しいと考えられて
しまいがちな人、

いや、そんな症状とか特性とか関係なくとも、

人と人が対話し、
理解し合うための考え方。

それが「ケア」技能の基盤に置かれているのが
ユマニチュードだと考えます。

考え方、哲学として
ユマニチュードから学ぶこと、たくさんある。

イヴ・ジネストさんが「人間らしさへの問い」を基盤として、
ケアのあり方を技能にまで昇華させて研究した、

その研究の向かう方向性のあり方、姿勢にも習いたいです。

その人が立ち上がることから始まるケア。


ケアはそんな人と人の感覚的なコミュニケーションから生まれていくものなのでしょうか。

感覚的なコミュニケーション、
まさにアートですよね。


介護福祉士、ケアワーカーのいぶし銀。最高にかっこいい。

ケア。アート。
どちらも「人間らしさ」が基盤。


ケアをする側、される側ではなく、

現場のかっけー人をポスターにして伝えていきたいと思います。

「しごといろ」を
コンセプトに。

次は児童分野。


障がい福祉、高齢者福祉もどんどん作る。
今回は最初なので少しですが、
様々な人、場面を伝えていく。


高齢者福祉領域には、アジア圏から介護士として
働きにきている人達もたくさんいるようです。

真面目でいい人が多いそうです。

ですが、出身とは違う国で働くことは、
言葉の違い、文化の違い、経済的な事情、

他にもビザの問題とか難しい課題がたくさんある
ことでしょう。

現場の身体感覚に学び、問い、伝えていきたい。

読んで下さり、ありがとうございます。

感謝です。


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