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びしょっく03 天ぷらそば

10739。

先月、都内のかくれ里に何度も通って、

絶品の天ぷら蕎麦をたくさん食べました。

真夏は涼へと覚醒する冷やし天ぷら蕎麦が旨いですね。


「美味しいものを食べる」というのは、やはり誰にでも、楽しい、生きがいのあるものだと思います。

「美味しいもの」。
「食べること」

 。



びしょっく=美+ショック、食の記事を2回かいたのですが、

この記事びしょっく03では、とある「天ぷら蕎麦」の話から転じていくものを発信します。

生と死が隣り合う鶯谷ラブホテルダンジョンを抜けると、

そこは隠れ里。。。

かくれざと「日暮里」。

ひぐらしの里

触覚素材の揃う日暮里繊維街とか、

下町の職人街もある日暮里、隠れ里。。


そのかくれ里で食べられる絶品の蕎麦屋さんに、

この夏、何回も行きました。

日暮里の路地裏にある「一由そば」


いちよし、24時間営業。

人気店なので、行列ができてることも多いです

(テレビ観ないので知りませんでしたが、今回記事にするためにググってみたら、テレビ取材も受けたことがあるらしいです。うーん、なるほど。。。)。


しかし、ここは本当に下町らしさの色濃い、

素晴らしい立ち食い蕎麦屋さんです。お店の雰囲気も、街の雰囲気も大好き。

温かい蕎麦の小盛り=130円。

しかも、小盛りでも、そこそこの量があります。


座れる席は2、3ありますが、

基本的に立ち食い蕎麦屋さん。

です。

店内も7、8人入ったら満席ぐらい。


お客さんの回転も早いように見えますが、常に食べに来る人がいるので、よく行列しています。

そして、24時間営業。

不思議のダンジョンに隣り合う24時間営業の下町の蕎麦屋さん。

日暮里かくれ里まで足を伸ばして、
「一由」。


真夏に、おすすめです。

真夏こそ「一由そば」さん、ですよ。


なぜなら、この一由そばには「冷やし」がある。

どんぶりに「冷やし蕎麦」が。

冷やし蕎麦(小盛り)×ジャンボげそ天

普通の温かい蕎麦もありますが、

真夏にオススメは「冷やし蕎麦」に、選択肢豊富な「天ぷら」を合わせること。

ここは天ぷらがめちゃくちゃ選択肢豊富なのです。

天ぷらは、冷やしの方が汁と麺とに、うまさが溶け合うように感じます。

20種類ぐらいあります。ハーフサイズがいけるのもあります(写真のジャンボげそ天はお店の名物)。

冷やし蕎麦は小盛り=160円。

小盛りでもけっこうな量があり、天ぷらを合わすならば小盛りで充分だったりもします。


天ぷらがどれも100~200円ぐらいなので、蕎麦と合わせて300円前後で激ウマ天ぷら蕎麦が食べられらるのです。

下町人情の椀。


やはり、夏は冷やし天ぷら蕎麦。


暑い身体に、冷たい蕎麦がキマります(冷やしはワサビもついてきます、真夏のちょっと疲れ気味の重い意識にキリリとキマります)。

冷し蕎麦にゲソ天キメて、身体は「涼」に覚醒。 

やはり、蕎麦には天ぷら。

蕎麦屋の天ぷら最高。


旨い天ぷら、

かりっと固めな天ぷらで、濃い味の蕎麦にうまく
からむ。

天ぷら蕎麦。旨いです。

その弁証法は?


濃い目のつゆに、蕎麦。そこに固めの天ぷら。

歯ごたえゴリゴリ。

そして、ちゅるちゅる、

ちゅるちゅるちゅと蕎麦のノドゴシ。

触覚ベクトル的弁証法。

もう1つオススメの組み合わせを紹介します。

一由そばでオススメの組み合わせ。
オススメというか王道かもしれませんが。
冷やし蕎麦×JKB

お店のもう1つの名物JKBという名の天ぷら
(ジャンボかき揚げB)


ネギは大盛りが無料なので、
大盛りネギが食べたい時は、

 注文の時に「ネギ多めでお願いします」
と伝えるのです

(写真はネギ多め注文の、冷やし蕎麦普通盛り×JKB)


なんと、
このボリュームで冷やし普通盛り280円+JKB200円=480円なのです

(天ぷら重くて汁に沈んで大きさが見えにくいですが、汁に沈むぐらいのスケールなのです)。


小盛りでもそこそこあるのに、普通盛りはかなり満腹。

しかも、食いしんぼさんに朗報なのは、
なんと、
さらに上の満腹次元「大盛り」も当然ありますよ。


大量ネギにワサビでツーンと。き、効く~そして蕎麦をちゅるちゅるとキメてく
(この夏なんかいもキメた味。涼に覚醒)。

こんな感じで、へい「おまちっ」と着丼。

ハジけ飛ぶネギ。
粋のいいワサビ。

見え隠れする天ぷら。

雑な盛り付けがいい感じ。。

「蕎麦×天ぷら」、

天ぷら蕎麦。 


トマト×チーズに匹敵する弁証法?


炭水化物と脂。

糖質と脂質。この弁証法がやはり旨いですよね。

パスタとかも、茹でるだけでなくて、

油ひいて炒めたら、また旨いですもんね、よくありますけど。ロメスパとかの焼きパスタ系もほんと旨い。

焼きカルボナーラとか焼きナポリタン。

トマトにチーズにワインのイタリアンがやっぱり私は最高に旨い料理だと考えているのですが(あくまでも個人的な好みです)、和食ももちろん好きです。

自分1人が食べるためには、テキトー雑な自炊しかしませんが。

天かすとひき肉、麺つゆ少々を一緒に炒めて、

それをソース代わりにして、パスタや蕎麦と混ぜて炒めて、、というものをよく作ります 


仕上げは、何でもいいからスパイス
一握りなのだ。
 

スパイスの勉強がしたくて、
スパイスハンターになろうかと
プラントハンターのスパイス特化。

(紅茶もイギリスのプラントハンターが
中国から持ち帰って
そうして紅茶文化が
イギリスで花開いたと。

日本の茶の文化も中国の茶で
インドからはスパイスですかね)。

簡単シンプルに旨い。てか、天かすが旨い。市販の味つき天かすで炭水化物を炒めるだけで旨いのかもしれない。

天かす発明した人に感謝。私の食生活の拠り所。

前に下町の人気チャーハンを作る、中華料理屋のご主人が、「とりあえずチャーシュー多めに入れとけば旨い」とその絶品チャーハンの極意を話していて、

大変な学びになったことがあります。

※もちろん、適量で多めでしょうけど。言葉としておかしいかもしれませんが、適量の肉多め。

肉・油×ご飯×卵。
肉多め。

絶品に?

コンビニのチャーハンお握りはセブンイレブンが
一番美味しいと思うんですが、

他のコンビニのチャーハンお握りと比較すると
セブンイレブンはゴロッとチャーシューの油が口の中に
味覚的にけっこう残ってて、
噛みながら
ご飯と組合わさっていくので
それが旨いと考えていまして、
やはりチャーシュー多めにいれときゃチャーハン旨いと。


炭水化物×脂の弁証法。

寿司だって、天ぷら蕎麦だって、、そうですもんね。

蕎麦と天ぷら。「天ぷら蕎麦」。。。

ヘルシーでさっぱりする蕎麦(+汁)×油物の天ぷら。

この味覚の弁証法も素晴らしいのですが。


さらに、


「蕎麦のちゅるちゅる喉ごし×天ぷらのサクサク」
という、、
触覚的な弁証法にも注目したいと考えます。


サクサク→ちゅるちゅる→サクサク
→ちゅるちゅるちゅ。


食感シークエンス。
日本食の食感ストーリーはナラティブ。

そう思いませんか?

和食が無形文化財なのは、食感のナラティブ、食材同士のナラティブの妙にある。
と、思うんです。


私は日本食の触覚的な弁証法について、前から考えているのですが。

いきなり話がまた飛びますが、
油画のマチエール(絵肌)というか、
現代だと、
ミクストメディアの生み出すミクスチャーというか、

やっぱり、
絵の具の盛りの、天ぷら蕎麦大盛り感覚のリリーフ的
テクスチャー(感触的)というか、

ゴッホの絵のマチエールって、植物の茎と葉の境目とかの有機的な生命の機関が、
驚く程、
幾何学的な造形としてそこにあることの
不思議さというか、

そこにふと気付いた時の、ゾッとするような畏敬の念を
身体が感じる、
ザワザワ感と似たような気持ちになります。
触覚的に。


近現代美術的な表現ですが、
ゴッホはテクスチャーと色彩科学が噛み合ってますよね、

白は膨張して見えて黒は奥に収縮する色彩仮説。
ほかにもいろ色。

セザンヌが多視点であったならば、

ゴッホの視座はフォーヴィスムにも連続する。
それはキュビスムに先駆けていた、と。

マティスの芸術革新、、

そして、セザンヌだけでなく、
ゴッホによる近代美術の基盤創造も
考えたいです。


原色弁証法の、絵画の画面上ではない、
観る人の目のなかの混色も、
伝統的なパースを色彩科学によって
更新しようとしたことも、
キュビスムの多視点につながる
近代デザインのテクスチャーの
その概念だって、

どれも近代美術革命に、早すぎたもの。
じゃないですか?

もう終わってしまいますが、
国立西洋美術館の『人と自然のダイアローグ』展で
近代美術と自然、
神秘性と科学
について深く感じ、考えられる展示がなされていて
大変素晴らしかったのですが、

やっぱり、
近代西洋美術の出揃ったこの展示の中でも、
ゴッホの絵の絵肌の特殊さは
際立ってました、。
大盛り蕎麦×ジャンボ天ぷら蕎麦な絵肌。

さすが西洋美術館で、
大変な有意義な学び。


ここで絵画の話を持ち出しましたが、
抽象度を上げてみればと考えていて、食にも繋がると。

触覚的に。


日本の場合は、和食のお膳にしてもどんぶりにしても、
水平あるいは円環的な時間軸がある、と考えます。
相互作用的物語。


ちゅるちゅる(のどごし)→サクサク(歯ごたえ)→ちゅるちゅる(のどごし)→サクサク(歯ごたえ)→ゴクゴク(汁で溶け合う)→サクサク(歯ごたえ)。

天ぷら蕎麦の、
この食感リズム。


ご飯とたくあん、みそ汁だと。
モチネバ→カリっ→モチネバ→カリっ→ズビズビ

→モチネバ→カリっ→ズビズビ→カリっ→モチネバ

音楽的リズムの、
ナラティブ。


では、ここで、この思考をラップにしてみます。

俺は 
朝メシ
ゴハン派
ナットウ好きは、
だいたいマブダチ yo

(ご飯にみそ汁、たくあんと納豆)。

モチネバ→カリっ→モチネバ→カリっ
→ネバネバyO→ズビズビYO。

お前はナットウ
みそ汁は熱湯

俺もネットウ
お前はナットウ
→ネバネバyO→ズビズビYO。

お前と俺で 納豆かき混ぜ  
お前も俺も ネバネバDJ

キュッキュッキュキュ キュッキュッキュキュ
ネバキュッキュ ネバキュッキュ
イェ

NATTO~YO!YO!
朝食パン派へ
魂のラップ


※私は朝食パン派。。。


さて、

日本食の代表は、

寿司、天ぷら、スキヤキ。外国人に紹介するとしたら。よくあげられるのは、この3つですかね。

外国人の知り合いがカツ丼などを食べると、ご飯の上に乗ったカツを全部先に食べてから、そのあとに下のご飯を食べることが多いのですよね。

この外国の人の食べ方、よくききます。

カツ丼のカツはカツ、ご飯はご飯で食べる。

この食べ方のシークエンスは、食の時間軸が直線的だと思うんです、コース料理もそうですかね。

日本人からすると、カツとご飯を一緒に口へ頬張るか、交互に食べた方が美味しいのになーと思うこともあります。しかし、この文化の違いは面白いですよね。

「社会的には」ダウン症とされる特性を持つ方や、自閉症の方でも、

カツ丼や牛丼等を、
上の具材のカツや牛肉を先に食べてから、

下のご飯を食べる方が多いのです。
外国人の食べ方の、食感物語に近いのです。

もちろん、全ての方がそうではありませんし、そのようなデータがあるわけでもありません、

ですが、この食べ方をする人を、私は福祉現場ではよく見かけますし、

現場でもそれはよく話されていることで。

食べ方が外国の人みたいだね、と。

美味しさ創造のためのヒントがあるように、学びがあるように感じています。

私は日本食の良さと、外国の食文化の良さ、

その食べ進める

時間軸の差異に非常に興味があって、

この違いが面白いなぁーと思うのです。


なぜカツ丼で、カツだけ先に食べるのか。
なぜその食感物語を選択する?


逆に日本はなぜカツとご飯、同時に、または交互に食べ合わせて食べるのか?

その食感ストーリーの時間軸が直線的であるのと、
ぐるぐる行ったりきたり
(カツ→ご飯→カツ→ご飯)
円環的であるのと、

その違いについて(仮説)。

直線的ストーリー「例・カツ丼」

バク→ザクザク→ザクザク→ゴクゴク→ザクザク
→ザクザク→ザクザク→ザクザク→ザクザク→→
→パサ、モチネバモチネバ→モチネバ→ゴクゴク→モチネバモチネバ

※たまにお茶入ってます。

円環的ストーリー「例・カツ丼」

バク→ザクザク→モチネバ→ザクザク→
モチネバ→ゴクゴク→モチネバ→ザクザク
→モチネバ→ザクザク

※たまにお茶入ってます。


食感物語の可視化を試みました。

が、


さて、ではこれをラップにして、、、

じゃなくて、

この話は少し置いておいて(あえて)、、。

寿司=ネタ×シャリ。
蕎麦=天ぷら×蕎麦。

糖質×脂質。うまみ。

旨味。


弁証法的な対峙が溶け合った「うまみ」。
ネタはネタ、天ぷらは天ぷら。
シャリはシャリ。蕎麦は蕎麦。

であること。


個のアウトラインは明瞭に、隣合うものとの関係性から生成変化する。原色弁証法的の組み合わせの妙。

鈴木大拙は、物質と精神が溶け合う狭間を「霊性」と呼んでいました。

西洋美術館の『人と自然のダイアローグ』展でも、自然から得る霊感について、その言葉がたくさんキャプションに出てきていました。

必ずしも、科学至上主義に偏らない西洋美術、近代のアートについて。

そしてまた、日本的霊性。鈴木大拙。

日本食の「いき」。「粋(すい)」ではない江戸前の「粋(いき)」。

「いき」は、決して個々のものの1つの側面の本質に由来した概念ではないと考えています。

「組み合わせの妙」だと思うのです。

※鈴木大拙は、『禅と日本文化』において「妙」を、英語で「トリック」と訳していました。

この鈴木大拙の『禅と日本文化』は、岡倉天心が世界に向けて日本文化を発信した『茶の本』から連続し、
鈴木大拙が世界に日本文化を紹介するために書いた本である、そんな側面があるようです。

「妙」がトリックというのも面白いなぁと思います。トマトとチーズの組み合わせの美味しさの妙はまぁトリックというか、魔法みたいな、ミラクルですよね。しかも、そこにワインとか。最高。

組み合わせの妙の
霊化した媚体。
粋。


九鬼周造は「粋」を「霊化した媚体」と述べ、

鈴木大拙は物質と精神の溶け合う狭間を「霊性」と呼んでいます。

これらの日本文化の根本に、鈴木大拙が鎌倉時代以降に「霊性」として発露されたとする日本的な文化の、

その積み重ねの後に、進化更新された江戸時代の不易流行の概念もある(と考えています)。

そして、それは観念ではなく、技能に伝承されているもの。日本文化は特にそうだと 。


懐枝を大切に育てながら枝を更新する。根や幹に変わりはないけれど、枝葉は常に更新されていく。花芽の芽生える場所も変化する。

それまでの根や幹を尊重しないのは流行だけであるし、

新たな懐枝を育てずに枝葉の更新をしないのならば、不易のみに偏る。

本物の「伝統」とは?

「伝承」とは?

やはり、日本文化は「不易流行」が1つその根本にあると考えます。

伝統に基づきつつも、
新たな更新に向かう
「懐枝を大切に育てる」。

「大地のふところ」に接続されている意識。
物質としての大地に溶け合うもの。
日本的霊性?


不易だけでも、流行だけでもなく、

円環する生命、不易流行。

大地の懐の深さに、生かされている私達人間。

大地のふところ。

それは、土に近い。

のだと思ふ。


江戸前の「粋(いき)」にしても、それを時代精神と組み合わせて「更新」していくことに、私は日本文化的な特性があると考えていて、

「粋(いき)」が何も更新されず、江戸時代の精神のままで、不易伝統だけなのは美的に「粋(いき)」ではないと感じます。

そこに伝統の更新がない(それは日本文化的土壌の伝統ではないと思う)。伝統に基づきつつも、伝統の更新がなければ、美的な「粋(いき)」そのものがなくなるように思うのですよね。

対峙する現実は時代精神と共に変化するわけですし。

「粋(いき)」、対峙のなかで、不自由を乗り越えようとする創意工夫と、その自然(じねん)のテクノロジーの発露に「現代的な粋(いき)」の形態を観ます。

零ベース。 


いや、土ベース。


大地の懐に接続されつつ更新、生成変化する。仮説。


わび=孤絶の、粋=決して同化しない差異が対峙の中に保たれていて、かといって無関心ではなく隣合うものへの引力が作用するぐらいにはフラットな対峙・境界線があり、それでいて孤絶が多様性の中で生きられる藝の術としての、そこから飛び火して発火する、そのそれぞれの情念の、

そのこころ、粋(いき)。


高齢者の方だと、嚥下機能の低下から、食事の形態に制限がかけられることがありますが。

誤嚥性肺炎とかも、死因の第一位に上げられることもあり、やはり食事は生命の維持に直結する行為であり、生きる楽しさがありつつも、
怖さもある。

また、胃ろうという医療福祉現場の課題もある。

現場の問い(土)をちゃんと観たいです。


私の祖父も、喉にものを詰まらせて容態が悪化して亡くなりました。ひいお爺ちゃんも餅を喉につまらせて亡くなったとききました。

「食べる」ということは、生死が密接に関わる行為。自分だけでなく、自然すべてが。その行動は、生にも、死にも繋がっているわけですもんね。

いつまでも、死ぬまで、美味しくご飯が食べれるというのも、とんでもない幸せであることを噛みしめて、他の生命を食べる、

「いただきます」を毎食かかさずに、心に込めて、「食べたい」です。

他の生命を喰らって、
それを栄養に生き長らえる、
従属栄養生物。
人間。

いただきます。 
感謝。


最重度の障がいをお持ちの方も、高齢者の方と同様に食事について様々な美味しさの創意工夫、

「食形態」というものを真剣に考えて、

日々の暮らしの中で、安全に、安心して食べられる、

かつ食事の美味しさ楽しさを考えていく、

調理師さん、栄養士さんらと協力して、

現場で取り組まれていることなんですよね。

こうした「食形態」についての問いも考えたいです。

ケア現場の。

「食形態」

ミキサー食、キザミ、一口大、常食とか。

とろみ(水分やスープ等に)や、減塩対応とかもある。

じつは私はこの介護食、ミキサー食等の調理も昔やっていて、実際に現場の利用者さんに食べていただいたりもしたのですが

(何事もまず現場に立つ。現場の問いに、じかに触れる行動が一番大切だと私は考えています。その土に触れてみる。それぞれの現実から発露された切実な声は、1つひとつの現場にあると私は思う)。

ミキサー食はやっぱり難しい、とろみで調整したりもしますが、難しいから創意工夫したいです。

「美味しくご飯を食べられること」
が医療の基本であると、

西洋医学にだけ偏らない、
東洋医学に科学的視座がかみあったような、
そんな医療人も世の中にいて、
尊敬しています。


例えば、「ソフト食」という食形態があります。

嚥下機能が低下した方でも美味しく食べられる食事。

「ソフト食」
食べたこと、ありますか?

知っていますか?

ソフト食は魚が旨いと思います。
現状です。肉はなかなか難しい。

ソフト食でググったら、一番にこう出ました
(ネット検索なので、あくまでもソフト食とは何か?の一般論的な説明でしかないですので、注意です)。

「ソフト食とは、食べ物を柔らかく調理することで、咀嚼力が低下した高齢者でも食べられるように工夫された介護食を指します。 たくさん噛まなくても食事を飲み込みやすいほか、誤嚥を防ぎやすいメリットもあります」

2000年の介護保険成立以降に、注目され普及した考え方ですかね。ネット検索なので、あまり詳しく解説されてませんが、

実際のソフト食は、高齢者の方だけでなく、最重度の障がいをお持ちの方、医療的ケアを必要とされる方々にも、美味しくご飯が食べられるように、そのために必要性のある食形態です。

ソフト食。

ガチガチに硬いものをゆるめて、
誰もが食事を楽しめるように。

栄養士さん調理師さんとか専門的な方が多いと思います。


※ちなみに「誤嚥」の考え方も色々あって、医師の中にはちょっと意地悪に解説する人もいますが(何か特定の「病気」と社会的に指定される症状を、専門的に認知することは、医師の業務上、とても大切なことだろうなとは思います)、

ただ、「美味しく食べる」ために、むせたり、病気の不安なく楽しく食べれることは、ソフト食を取り巻く話題や、誤嚥の考え方にしても、医学的な知見抜きにしても、「美味しく楽しく食べるという方向性」が重要で、そこをブレずに考えたいと思います。

誤嚥が症状としてどうなのか?医学マウントだけで話が終わってしまうことが多い。

ソフト食はそうした生命に直結する行為。
「食べる」ことにおいて、

(安心安全も含めて)誰もが美味しく食べることができる、

それを目指すわけですよね。

魚のソフト食は、すごく美味しいんです、

魚ミートローフみたいな、普通に魚食べるのも旨いですが、

刺身や寿司、焼いたり煮たり揚げたりの食形態の他に、ソフト食も充分に選択肢に入るぐらい、

魚のソフト食は旨いです。

まぁ魚のソフト食は旨いというか、

ネギトロって旨いですもんね、好きな人は多いと思います。みんな大好きネギトロです。

魚のソフト食は、ネギトロっぽさ
もあるように思います。
もちろんネギトロそのものは
調理によって繊維的に身が残ってるのもありますが。


しかし、ソフト食は肉が難しいなと考えていて。

やっぱり、肉は歯ごたえほしいんですよね、

焼肉とか旨いですが、やっぱり目の前で焼いて、焼きの肉汁したたる中にちょっとカリっとした歯ごたえというか、焼き肉だからこその食感というか。

ニク食ってる感。というか。
そういう欲求ある時って、あります。

しかし、
このソフト再現性は難しい。


肉の焼いた食感。

これが旨いです、数秒焼きだけのカルビとかタンとか、レアに近い食感もありますが、必ず「焼き」の食感がそこにはあって、

そしてその「焼きの食感」には歯ごたえがあって「硬さ」があるんですよね、

硬いというか、独特の食感がある。口腔内の独特の「焼き肉食感」。

あれをソフト食で再現するのは、難しいなと思うのです、焼肉のソフト食での再現性を高めるのはやはり難しい。

ああいうちょっとした硬さや焼きの、

こんがり肉の感覚は、嚥下機能や咀嚼力の強さがなきゃなかなか味わえない。特権性のあるもの。

私なんかふだん、当たり前に食べてますけど、ケア現場ではそう感じる。自分の特権性に気付かされることが多いです。

焼きは難しい、かといって柔らかく煮た肉のあのお肉の弾力残したまま美味しくしました、それも「ソフト食の食形態」的には厳しい。

それでずっと肉のソフト食感というのは考え続けてきたのですが、やはりネギトロにヒントがあるようにも考えていて。

ネギトロ×醤油。

まぁソフト食としてはネギもむせ込みに繋がりますから、ネギミキサーする必要ありますが。

みんな大好きネギトロに、
ソフト食のヒントがある?


美味しいソフト食の問い、「食感」(当たり前と言えば、当たり前ですが。歯ごたえある感じと同じ美味しさをどう表現するか?)。

食感、歯ごたえやのど越し、触覚的要素です。

嚥下機能低下や誤嚥等の怖さ、

ソフト食の課題に直結するのは、

味覚的な要素以上に、
触覚的なものですよね。

この『びしょっく』の記事も、
01、02、03
と書いていますが、

ソフト食の問いに
アプローチしたいと考えていて
書き始めています。

誰もがご飯を毎日美味しく食べられる=幸せ。

これはまず間違いない、
『アンパンマン』のやなせたかしさんだって、
アンパンマンに込めた気持ちは、その想いだったわけですよね。


というわけで、

この触覚的要素を「食」にもたらすために必要だと現在考えているものがあって、びしょっくの記事もその問いを発信してくために書いてるんですが、

いま2点あります。


必ずしもソフト食だけでなく、「ケアの食形態(時空間も含めて)」の研究。

01 時間差を生かした温度感

コース料理のように、
提供する時間軸をデザインしてみる。
これはあえて直線的に温度感をデザイン。

02 食感の弁証法

ソフトな食感に、
うまくフィットする食感的な弁証法を探す。

蕎麦×天ぷらの
「ちゅるちゅる×サクサク」は、
嚥下機能や咀嚼力が低下すると食べるのは難しいわけですが、

01の案にリンクしますが
温度感を活用したソフト食課題クリアの
食感の組み合わせの妙を考えてみる。
これはあえて円環的にで、
和食のようなお膳で。


今回びしょっく03で書いている
「冷やし天ぷら蕎麦」も
冷たいお蕎麦×あつあつ天ぷら
の要素もあるわけですよね。

触覚的な要素、

舌触り、のど越しは難しい。

そこで触覚の熱の視座や
香り等も含めた
多様な感覚の物語からアプローチする。


この2点(詳しく書きたいのですが、別記事にします、ここでは「問い」だけにします)。

のどごしについてが、まったく見つからず、よく一由で天ぷら蕎麦をキメて実証研究をしているのですが、やはりソフト食としての「のど越し」は難しいのかもしれません。

あと、やはりフランス料理のような「ソース」をソフト食にかけて味わうことも考えられると思っていて。

ネギトロだって、醤油(ソース)つけて食べるし、少量のソースをソフト食につける。

これだけで旨い。ご飯にのせてネギトロ丼。

このソースの量が多すぎるとまたソースにトロミ必要になりますが、ネギトロに醤油かけるぐらいのソース開発をする。

そのソースに、糖質×脂質の旨味があるとなおいいのかな。

ゆるやかに。


オバマ前大頭領の年間ベストブックに選ばれた『何もしない』の著者ジェニー・オデルは、

「方法論を考えること」の大切さを言っていた。

現実の責任を保ちつつも、決して流行にだけ流されない。表面的な行動だけが正解ではないと。

やっぱり、まずその場の土に触れることを忘れずにいたい。

「方法論の倫理観」というか、そんな哲学の必要性をいま色んな状況から、切実に考えていました。

私は岡本太郎の、

「昨日の自分なんて、蹴っ飛ばしてやれ」

という言葉が大好きなんです。
常に、
変化し続けたい。

壊しつつ作る。福岡伸一教授の動的平衡。エントロピーの時間の坂を登り返す、生命の営み。


「どうやるか?」は本当に大切なことだと。そこには今を生きる人と未来への責任がある。

さて、そろそろ栄養士の技能の学びもウォーミングアップしています。

調理は日々の生活でそりゃやるので、ケア食のあり方も現場で日々観察を深めさせていただいて。

いま、学ばなければならないものは栄養学。どっから手をつけようかなと悩み中ですね。

一由そばの
話から
かなり転じました、

一由そば。ここ最近で10円値上げしてしまっていて(記事の最初に書いた価格は、値上げ後の価格です)、

下町人情の一服にも、
時勢の皺寄せがきてて、
いろいろ思うことありです。



次の記事はワタリウム美術館で開催中の『鈴木大拙展』から転じていく思考を描きます。

よんで下さった方、
本当にありがとうございます。
かんしゃしています


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