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感想:『月面文字翻刻一例』

ひと月にひとつの月が必要である。ひとつ仕上げるのに十年かかる。必要な作業は無論彫りだけでなく、忘却の山脈から石を切り出すところから始まる。億年の忘却の冷たさに静まり返った石を憧憬の火で温めて、球形に彫り出し、世の終わりの光と、世のはじめの闇にかわるがわる浸し、星々のささめきの砂で磨き、そこでようやく文様を入れる段になって、文様を入れ終わった後は再び磨きあげて虚空に仕舞っておく。

月面文字翻刻一例

5つの区分で順列された幻想物語群が並ぶ掌編小説集。
昨年の発売当初に買っていたのだけれど、ちゃんとメモを取りながら読もうとするといつの間にか家のどこかへ消え去っており、ついにビブリオバトル(5分の持ち時間で自分の推し本を紹介するメチャ面白ゲーム。筆者はここ数年ハマっている)に持っていくタイミングも逃してしまった。

うーん、自分の怠惰を差し置いてもビブリオバトルに持っていくことはなかったかもしれない。本書の性質はとてつもなく精妙に彫塑された工芸品が無数に収まった小箱のようなもので、小箱に収まった中身すべての良きところを語っていると一時間くらい経ってしまう。
5分に収めて語ろうとすれば、その営為の傲慢さに私の心が耐えられる気がしない。

断章それぞれに、月や夜、記録と書物、名前と所在、のような様々なテーマが見え隠れするが、そんなことを念頭に置かずともすべての物語が平易でありながら磨き抜かれた文章で描かれていて、するすると読み進むことができる。

読み進むことは平易なのだけれど、掌編それぞれの世界には何かしらの居心地の悪さが備わっており、読み手に「この世界にいつまでも浸っていたい」と耽溺させるようなものではない。
いや、もしかしたら、この世界群に耽溺できないことこそ、私がこの憂き世に染まりきっている証拠なのかもしれない。


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