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"自分らしさ"の正体


ひと昔前は"みんなと同じ"であることに重きを置かれていたが、いまは"個性"が大切にされているように感じる。

たしかに、個性は大切である。
個性の多様化が認められてきてよかったと心から思う。

でも、個性って、自分らしさって、いったいなんなんだろう


そもそも、生まれ持った個性なんて、ないんじゃない?

「かわいいね」
「そんなことないよ」

っていうテンプレートな返答、これがあんまりすきじゃない。

かわいいって言ってるんだから、素直に受け取ろうよ、と思う。そして、今言いたいのは、褒められたそのかわいいは貴方への賞賛だけじゃないんだよ、ということ。

わかりやすく外見で言うと、
切ったばかりの髪の毛
よく褒められるお洋服
お守りみたいなアクセサリー
似合うと思うと選んでくれたコスメ
癒しの香りの化粧水
など、、あげるときりがないくらい。

これらのわたしのパーツは、わたし以外の"作ったひと"がいる。

わたしはわたしでできていない。

果ては、裸のこの身体だって、両親に作ってもらったものだと言えるわけで。

内面で見ても、
いつか観た映画、本、テレビ
問いを与えてくれたアート
友だちと笑い合った思い出
恋人とのやさしい時間
両親に褒められた記憶
上司に怒られたこともあったな〜
どうしようもない怒りだとか、
傷ついて泣いてしまうこともあるし、
本当にいろんなことがあったと思う。

そんな経験がつながって、いろいろな考えが混ざり合っている。
誰かのすてきなところをみつけては自分も真似してみたり。こんな自分は嫌だなと思うところを直したり。いつだってアップデートは可能なのである。

わたしはコラージュでできている

外見についても、内面についても、そうやって、切り取って、貼って、つぎはぎのようにして自分ができている。

何を選んで、何を選ばないか、その選択はひとそれぞれで、全くおんなじなんてことはない。

わたしはわたししかいない。

「誰かの真似をしているからオリジナルじゃない」
なんて卑下することはなく、切り取って貼っていけばいい。自分のものになったときに、その時の自分は唯一無二だから。

「かわいいね」の話に戻るが、
誰かに褒められたときは、それを作ってくれたひとと、自分のセンスを褒められたわけなので、作ってくれたひとへのリスペクトも込めて、「ありがとう」と言えばいいと思う。


太い木の幹に、自由にのびる枝があり、光を受ける葉が生い茂って、鳥たちが歌う。

さまざまなセンスのコラージュでできた、わたしだけの個性を、これからも大切に育てていきたいなと思っています。



週1noteに参加しています。
言葉を書くことに関してまだまだ未熟者だけど、いろんな人の自由なnoteを見ていると、がんばろう〜って気持ちになれるからありがたい。

あと、2回しか会ったことがないけど、昔から仲良いんじゃないかなって思うようなお友達が最近書いてくれたnote。

食に携わる人に、自分の作ったものを食べてもらうことは緊張するけれど、喜んでもらえて嬉しい。食界隈の人は、人が作ったものも褒めてくれるから平和。(ほかでもそうかな?)おいしいってしあわせ。

おいしいの追求と心地よい空間づくりのため、サポートを使わせていただきます。