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○内側から大人なわたしたち

幼い頃、正月に親戚で集まった時のこと。
肉や揚げ物、甘いものを次々に食べる子どもたちを見て、ある大人がこう言った。
「若者はいいなあ!何でもばくばく食べられて。それも若いうちだけだよ~。食べられるうちにたくさん食べときなよ」
すると、また別の大人が言う。
「違うよ、若い頃にたくさん食べるか、少しずつを長く食べるか、どっちかだよ」
今思えば、その人は数年前に高血圧と診断されて、食べ物をずいぶん制限していたので、残念な気持ちが現れたのだろう。
その時は、子どもながらに「そんなものなのかあ~」と思っていた。大人は色々気にせねばならないことがあって大変そうだなあ、と。

昨夏、久しぶりに友人と通天閣へ行った。
その友人は関西から関東へ引っ越すことが決まっていたので、その思い出作りも兼ねて、その周辺の「大阪っぽい」スポットを回って遊んだのだった。
その帰り道、「やっぱここらへん来たなら、せっかくやし晩ご飯は、あれいっとく?」と足を向けたのは、串カツ屋だった。通天閣で、ご飯で、串カツなんてめっちゃ大阪やん!
思えばちょっと、いやだいぶテンションが上がっていた気がする。
適当に呼ばれて入った店内は、観光客や常連客でいっぱいだった。カウンター席に座って、二人でとりあえずお任せの串盛りを注文する。ほどなくして、カラッと揚がったきつね色の串が5本、お皿にのって運ばれてきた。「おいしそー!」の声を上げてすぐに手に取り、揚げたての衣を、さらさらのソースにさっとくぐらせる(もちろんソース入れには「二度付け禁止!」の表示付き)。噛むと、さくっとした衣がフルーティな甘めのソースに絡んでとってもおいしい。
「思ったより衣うすいんだね~」「熱いけど次々食べちゃう」と感想を言い合ううちに「これ、ほかの具の串も食べたくなるね」などと盛り上がり、次々と色々な串を注文していった。
そうして食べ進め、とうとう「最後にしよっか」と頼んだ串数本を待つだけになった時だった。
友人が突然「やっぱり、無理かも」と言い始めた。
「え?」と返すと、「もう苦しいからやめとこうかな」とかなり苦々しい感じ。そう言われてみると、揚げ上がりを待つまでに徐々に自分もお腹がいっぱいになりつつあることに気づく。
「確かにもうやめといた方がいいのかもな…」と思っていたら、「はいお待たせ―」と最後の陣が到着した。
何も無理することはない。残したらいいんだろう。でも…
数本を残すのもなんだか忍びない気がして、「じゃあ代わりに食べるわ」とその子の分もぱくぱくと食べた。入れてしまえば何とかなるもので、「ごちそうさまでした~!」と大満足で帰路に就いた。

しかし、事件はその夜に起こった。
布団に入ってしばらくして、身体に異変が現れたのだ。胃がひっくり返るような感覚に襲われて、とても横になっていられない。
何か甘ったるい、気持ち悪いものがおなかの中で暴れているみたいだ。ふう、ふうと息が荒くなる。何かお腹からせり上がって来るのに、決して何も出てこない苦しさ…。
そこで、すべてを察した。


あいつだ。
胃だ。
胃もたれだ。

それまで「胃もたれで揚げ物が食べられない」という状況は、自分とは関係ない少し先にある出来事だった。
むしろ、学生時代に逆流性食道炎で食道がやけるみたいな気持ちを味わっていたので、「胃もたれってあそこまでやばくはないでしょ」くらいに思っていた。完全に下に見ていた。

しかし、胃もたれデビューして初めて激しく後悔した。
食べちゃえばなんとかなる?
ならない。
胃液がなんとかしてくれる?
してくれない。

結局、そのまましばしのたうち回った後、某胃薬を飲んだ。しばらくするとすーっと楽になった。
薬の効果にあれほど感謝したことは今までなかったと思う。

大人になると、食べられなくなるもの。
それは病気や身体の変化で、気づかない間にどんどん増えていく。
そんな自分の前で、ばくばくと気の向くままに食べまくる子ども...。
初めて、あの時の大人の気持ちがわかった。
しかし、悔しい一方で、これは「身の丈を知る」ということなのかも...と思ったりする。

私たちは、「大きくなる」という役割が終わった大人なのだ。
日々生活するのに丁度いいだけを食べる身体に、シフトチェンジするのは当たり前だ。

そんな思いで今日も、自分の体内と相談しながら、串カツ屋の前をちらちらと通ったりするのだった。


(からだの感覚を取り戻す 49)