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(最終回)○あなたを覚えていること

先日、母から突然連絡があった。
親戚が屋根から落ちたという。「雪かきをしていて足を滑らせた」と聞いた時、それでも私は「あんなに強いおじさんなら大丈夫だろう」と思った。
その人は、厳密に言うと遠い親戚なのだけれど、小さい頃から本当によくお世話になった。どちらかと言うと野性的なにおいのする人で、どんなに遠い距離でも、紙の地図を一瞬見ただけで運転できてしまう。目的地までの道がはっきりとわかるらしい。
また、陶芸や畑仕事、日曜大工などなんでも自分の手で作ってしまう人だった。
教わったことはとてもたくさんある。大河ドラマを見ていたら、そのあたりの時代の歴史をすらすらと話す。道にいるカブトムシを捕まえて、昆虫の身体の作りについて詳しく教えてくれる。畑のこと、昔の地域のこと。
「この人の頭にはどれだけのものが詰まっているのだろう?」と驚いてしまう程その知識は豊かだった。そして、愛妻家。私は、その生き方からたくさんのことを学んだ。


そのおじさんが「頭を強打して、今はほとんど認知症のような状態になっている」と聞いた時、真っ先に思ったのは
「あの膨大な記憶はどこへ行ってしまったんだろう?」
ということだった。
その人がまるっと生きてきた人生分の、知識と経験がこんなにもあっさりと見えなくなってしまった。

奥さんは「私の顔を見てもあまり反応がなくて」「もしかしたら誰かわかっていないかもしれない」という。そんな悲しいことがあっていいのか、と思った。

奥さんのことがわからないなら、子どものことや、友人のことも難しいだろう。ましてや遠い親戚の自分がその記憶に残っていないのは安易に想像がついた。
「結婚するときは相手を連れて来なさいよ」と豪快に笑ってくれたあの時も、もうどこにもない。

「相手が自分を認識している」というのは、当たり前のようでいて実はすごいことだ。
挨拶をするとどこかほっとするのは、相手の中の自分が引き続き存在しているのを認識するからかもしれない。

脳はすごく賢くて、でもびっくりするほど弱い。

一体どんな声をかけたらいいのだろうと思っていると、おばさんからメッセージがきた。
「でも、一時は命も危ない状態だったのにこうして生きていてくれる姿を見ると、彼の生命力を感じます」
脳は確かに重要だけれども、すべてではない。
今は身体の色んな部分が、懸命におじさんを生かしているのだと思った。


「からだの感覚を取り戻す」というコラムを1年間書き続けてきて、自分が今まで知らなかった身体の役割にたくさん気づくことができた。知れば知るほど、自分がこうしてよくはたらく身体をいつのまにか所有していることにびっくりし、感動する。
ただ、最近は少し冷静になって、これから先のことも考える。
身体はこれからどんどん使いにくくなり、自分の思い通りにならなくなっていく。
ふしぶしが痛くなったり、景色がどんどん見えにくくなったり、周りの音がずいぶん遠くに聞こえるようになる。そして、事故にしろ年齢にしろ、きっと記憶だって留めておけなくなる。たとえそれが大切なものであっても、意思とは無関係にどんどん忘れてしまうだろう。

でも、そうした時に、できなくなったことをただ悔やんで、責めることだけはしたくない。
その中でできることに目を向けたり、今まで身体が自分にもたらしていた恩恵を忘れないようにしたいと思う。(実際そうなってみるときっと難しいのだろうけど)


この連載を書き続けてきた理由は様々あるけれど、最近よく思うのは、
もしかしたら自分は、これから出会うであろう「自分の身体がもたらす悲しみ」に対抗するためにこうして書き続けていたんじゃないかということだ。

これからも変わらず一喜一憂しつつ、自分の身体とうまく付き合っていきたいと思う。


(からだの感覚を取り戻す 51)