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◯私たちが持つ数字

数字、というのにめっぽう弱い。
今年、ある試験を受けるために「中学生数学」の問題集を購入したが、開いた途端頭を抱えた。方程式、因数分解、関数…。
そもそも小学生の頃から、理数系の諸々を理解することを諦めていた気がする。テストや受験では、文系科目で何とか挽回してやってきた。
もちろんそれで万事大丈夫だと思っていたわけではない。
これまで幾度となく「数字ができひんと大人になって苦労するで」と言われた。でも、これが自分の戦い方だと思ってやってきた。だってできないものはできないんだし…。
幸いなことに、大人になった今はネットの力で何とかなっている。

しかし、最近になってじわじわと「困ったな」と思う問題がある。
それは、身体に関連する「数字」のことだ。
身体に関連する数字?

「温度」が覚えられないのだ。

たぶん、数字から気温を判断する能力が低いのだと思う。天気予報を見ても、気温というよりキャスターの「明日は寒いのでマフラーが必要です!」みたいな言葉を頼りにして服装を決める。
そういう時はまだいい。
困るのが、地域と気温をただひたすら読み上げるだけの天気予報だ。
「福岡、◯度。大阪、◯度。東京、◯度...」
正直、「で?!どうすればいいの?!」という気持ちになる。
ただ、社会人になって「今日5度しかないみたいですね、寒いですよね〜」みたいな挨拶代わりの天気話が増えてきたので、最近ようやく相場?を覚えてきた。さすがに「あ、数字が1桁になったら寒いのだな」ということもわかるようになった。
しかし、全部20歳になって以降の話である。

数字と身体が全然紐付いていない。

そしてもう一つ、早急に覚えなければ身の危険を感じる数字が「お風呂の温度」だ。
「そうは言っても人が入るお湯でしょう、そんな大げさな」と思われるかもしれないが、なかなか重要な問題である。

東京で友人と銭湯に行った時のこと。
元々「江戸の風呂は熱い!」と耳にしていたので覚悟はしていた。というか、「ならば湯に入るまい」と思ってシャワーを使っていた。

しばらくして、ふと友人の行方が気になった。
探すと、ある湯船で腰まで浸かった状態で停止している姿を発見。顔は真顔。なぜか中腰である。
「どうしたん?」と聞くと、真顔のまま答える。
「熱いから、慣れるまで待ってる」
「そんな熱いん?」と聞くと、思っていた程ではない、ゆっくり浸かっていくと入れるよ、と言う。
その言葉を信じ、右足をゆっくり湯船に浸けてみた。

.....むちゃくちゃ熱い。

「あっつ!!!」と叫んだ私に、「徐々に慣れてくるから」と友人は言う。確かに、お風呂のお湯って最初こそ熱く感じるけど、我慢して入っているうちに丁度よくなってくるものだしなあ...
そう思って1分くらい足を入れていただろうか。

いっこうに慣れる気配がない。
むしろ皮膚がどんどん痛くなってきた。

「もう無理やあっ」

そう言って引き抜いた足は、浸かっていた部分から下がクッキリと赤くなっていた。
軽いやけどである。
冗談でなくちょっと涙が出た。

それ以来、お風呂で湯船に足を入れる瞬間が怖い。
そう言う時にこそ「お湯の温度」を頼りにするべきだと思うのだが、これもまた曖昧なのだ。
前は38度で丁度よかった気がする...でも今日は42度でむちゃくちゃぬるく感じるぞ...みたいなことも頻繁にある。

私はまだまだ数字を信用できない。

しかし、普段は気にもしないけれど、
人間は、肉体に自分の数字を持っている。
言わずもがな、「体温」である。
そして、それを保つのに結構命がけだ。

冷え性だとか発熱だとか、名前は色々だけれど「人間が通常の温度を保てない状態」に対する症状はたくさんある。
思えば、こうして生活している人間は皆、本来同じような温度を保って生きているのだ。

そして最後はぐっと冷たくなり、1000度の炎に焼かれて消える。

そう考えると、気温やお湯の差異なんてどうってことないのかもしれない。

自分がいつか経験する、そして経験できない数字について、冷えた足先を見ながら考えた。



(からだの感覚を取り戻す 45)