〇ふれるとふれられる

 眼科に行ったときのこと。
受付に「本日院長休診」と書いた札が立ててあった。待合室にいたおばちゃん達が、「あら、今日院長先生休みなん」と話している。二度来ただけで顔も思い出せない院長の休んでいる姿を想像しながら、呼ばれた診察室に入る。
そこには温和そうな「代わり」のお医者さんがいて、とりあえず目見せてもらいましょかー、はいそこの器具にあごのせてー、と指示された。あごを乗せる。紙がぺたっと貼り付く。おでこを器具のカーブした部分にぐっと付ける。はい、じゃあ見せてねーとまぶたを親指で持ち上げる先生。
すると「んっ!?」と引っかかった。いつもある感覚がないのだ。
まぶたにも、目にも、痛みがない。いつもなら強引にひっくり返されるので目にしみて痛いのだが、今回はそれが全くなかった。
まぶたの裏返し方のプロか。ちゃちゃっと処理し、「はい、いいですよ」と言われた。診察室を出るとき、気分がよかった。
待合室で、さっきの感覚について考えてみた。ひっくり返し方もそうだけど、あの先生はきっと「ふれ方」がうまかったのではないか。まぶたをひっくり返す前に、ほっぺたに小指をあてて支えにする、その動作からやわらかく、不快感がなかった。なんだか少し安心するような。

整骨院などでは、たいした症状もないのに来るお年寄りがよくいるらしい。
「腰が痛くて」「足に違和感があって」。ほぼ毎日同じこといいつつ彼らが来院するのは、実は「誰かにふれてほしいから」ではないかと言われている。
誰かにふれる、もそうだけれど、ふれられる、というのも実はとっても稀有なことだ。その点、医者は「ふれる」のプロともいえる。「医者」という役割をもらった途端、他人にふれてもよい人になる。やってくる人も、「患者」になった途端、ふれてもらえる人になる。

 皮膚は「人体最大の臓器」と呼ばれている。
その事実を初めて知ったとき、「臓器」というおどろおどろしい言葉の中に皮膚が含まれていることに驚いた。皮膚は、単に「体の一番外側の部分」というものではなく、それ自体が立派に機能していて、外界のウイルスや紫外線などから内部を守ったり、汗腺などと協働しながら体温を保ったりしている。
 そして、これはそのまま「ふれる・ふれられる」の関係にも影響している気がする。皮膚を「外界を受け入れるかどうかを判断する部位」だと考えると、対象が空気中のウイルスか、それともヒトかの違いだけだとも言える。さわられて安心するのは、「あなたを排除する気はありませんよ」と、相手の皮膚に受け入れられたからなのかもしれない。

高校生の頃、はじめて「役者」をやったとき、色々な驚きがあったけど、中でも大きかったのは「ふれてもいいんだ」ということだった。友達どうしの役なら腕を組んでもいいし、子どもの役なら手をつないでもいいし、恋人の役なら抱き合ってもいい。そういう関係だからかはわからないが、役者の人はみんな体の距離が近いと思う。「そうか、人って本来こんなにもふれてよかったんだな」と感じたことを思い出す。

眼科の帰りに、「最近人にふれたのはだったっけ…」と思い返すと、前作の芝居の本番中だった。
脚本・演出として参加する舞台は、役者の時と違って身体的コミュニケーションの機会がぐっと減る。そういう役割だから仕方ないのだが、それはそれで寂しい気持ちもある。
ただ、そんな中でもぐっと距離が縮まるタイミングがある。
本番前に、疲労困憊の役者にマッサージをする時だ。役者がストレッチしつつ体を投げ出しているので、そこにいそいそと近寄ってつらそうな部位を押す。「うー」とか「あー」とか言う声が聞こえる。そこから本番のコンディションや気になっている部分に話が及ぶこともあり、個人的には大切なコミュニケーションの場だと思っている。
終わると役者は「あーすっきりした」と晴れやかな顔を見せてくれるのだが、むしろ受容してもらい、助かっているのはこちらなのかも知れないと毎回思う。何せ稽古中は、「自分はできないのに役者には無茶ぶりしているなあ…」と後ろめたく思う気持ちもあるので…もみもみ。

【からだの感覚を取り戻す③】