見出し画像

2024.2.5「コヨミさん」

うるうアドベントカレンダー17日目。
今日は2024年2月5日。
4年前の今日は、うるう新潟公演2日目です。

街角のよろずやに、コヨミさんという女性が働いておりました。
ちょっとそそっかしいひとで、よく数を数え間違える。

ヨイチは、コヨミさんという女性との思い出を語り始めます。


甘食

「よろず屋」は大正期から見られた日用雑貨を売る店の呼称です。雑貨はもちろん、食料品から駄菓子まで扱っている、今でいうコンビニエンスストアのような店であったと想像されます。

町にひとつは必ずあるような身近なよろず屋で働いていたコヨミさんは、家族の営む店を手伝っていたのかもしれません。

そんなよろず屋へ、ヨイチは甘食を買いに行きます。

例えば、私が甘食を5個頼む。
すると彼女は数え間違えて、4個しか袋に入れない。
そして、決まってこう言うんだ。
「これ、1つおまけしときますね」
つまり、とんとんだ。

甘食

甘食(あましょく)は日本で生まれたパンです。関西圏ではあまり一般的ではないため、食べたことがない人もいるのではないでしょうか。
実際、関西生まれの私は『うるう』で甘食という存在を知りました。

甘食は薄力粉に砂糖、卵、油脂、牛乳を混ぜて作られます。パンではありますが、発酵させずに重曹やベーキングパウダーなどによって膨らませて作られます。卵の風味の素朴な甘みを持ったパンです。

甘食の起源は1894年。日清戦争の戦争景気でパンの売れ行きがよくなった当時、東京の清新堂というパン屋が「イカリ印のまき甘食」を一個一銭5厘で売り歩いたのが始まりであると言われています。
クリスチャンだった店主が親交のあった外国人牧師からヒントをもらい、欧米のマフィンを参考にした結果、このようなパンが生まれたのだそうです。

その後、甘食は大正末期から昭和初期にかけて大流行したと言います。

ちなみに、日本国語大辞典にはこのような用法も記載されています。

いつもふたり仲よくくっついている人をいう俗語。〔最近百科社会語辞典{1932}〕〔隠語構成様式并其語集{1935}〕

甘食が基本的に2つセットで売られていることが多かったことから、このような俗語が存在していたようです。
甘食という言葉に含まれるこのようなイメージも、ヨイチの恋心のようなものを想起させます。


よろずやの娘さん

雨を喜んだり、万引き犯を心配したり、コヨミさんは他の多くの人々とは少し違った感性を持っていました。
ヨイチが仲間外れにされる原因の一つであった髪のことも、素敵な銀髪だと言って褒めてくれました。

「コヨミさん。自分は、いつもひとつ足りないのです。いつもひとり余るのです。人と違って、嫌なのです。」
「ふうん。人と違うってことは、余ったってことじゃないと思うな」

ヨイチが悩みを打ち明けると、コヨミさんは彼のことを「当たりの1」だと励まします。この時の会話から推しはかると、コヨミさんは当時のヨイチよりも少し年上のお姉さんだったのかもしれません。
甘食が流行した時代と重ねあわせて、当時を1930年代前後と仮定すると、ヨイチは17-18歳ごろ。
コヨミさんとの出会いがそのくらいの年齢のころであったとすれば、まさに彼にとっての青春の思い出なのだろうと想像できます。


ちょうど同じころだ。
大好きだったよろずやのお嬢さんが、いたって普通の男と結婚した。

ヨイチが20歳、1940年ごろに呉村先生が亡くなり、同じころにコヨミさんがお嫁に行きます。

ヨイチがコヨミさんに出会ったのが1930年代前後であったと推定すると、当時彼と近い年齢であったとして、そのあとすぐにお嫁に行ってしまったとしても不思議ではありません。
おそらくヨイチが通っていたよろずやに、もうコヨミさんはいなくなってしまったのでしょう。

彼女がどのような「普通の男」と結婚したのかはわかりません。
しかし1940年といえば、日本が戦時下の体制へと突き進んでいた時代です。当時の20代前後の女性がどのような苦労をしたのか、お嫁に行った後にどのような日々を送っていたのか。
私たちには想像をすることしかできませんが、ヨイチもまた、はたから眺めることしかできなかったのでしょう。
その後旅に出て森に住む道を選んだ彼は、その後の彼女の消息を知ることもなかったかもしれません。

次の更新は静岡公演の4年後、2月13日です。


[参考文献]
『日本のパン四百年史』日本のパン四百年史刊行会、1956年
岡田哲・編『コムギの食文化を知る事典』東京堂出版、2001年
岡田哲『たべもの起源事典 : 日本編(ちくま学芸文庫 ; オ20-1)』筑摩書房、2013年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?