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2024.2.27「アルブースト」

うるうアドベントカレンダー27日目。
今日は2024年2月27日。
4年前の今日は、うるう大阪公演2日目です。

あれから、40年が、経ちました。
私は、38歳から10歳分だけ年を取って、48歳。

40年後も、ヨイチは変わらず森に暮らしていました。



新しい父親

一つ変わったことといえば、私に新しい父親ができたということ。
なあ、アルブースト。
私の前の父親はグランダールボといって、それはそれは大きかったんだよ。

ヨイチは新しい父親として、「アルブースト」と名付けた苗木に話しかけます。

アルブースト(arbusto)は小灌木、低灌木という意味のエスペラント語です。これもやはりヨイチが名付けたものでしょう。

アルブーストはまだ若い苗木で、ヨイチが抱える植木鉢の中に育っています。
グランダールボ、呉村先生、そして彼と血のつながった父親。
ヨイチが「父親」と呼ぶその誰もが、ヨイチから見れば年上、もしくは生きた年数はほとんど同じであっても、年齢としては上の存在でした。
しかしアルブーストは明らかに、彼よりも長い時間を生きていません。その声の高さからも、まだ子どものように思えます。

ヨイチはなぜアルブーストを「父親」と呼ぶのか。
グランダールボという存在を失った後もなお、新しい父親を必要としていたのだとすれば、彼にとって父親がどれほど重要な存在であるかが伺えます。

アルブーストを父親と呼ぶヨイチにとって、自分よりも長く生きているかどうか、年上かどうかという点は関係がないのかもしれません。
アルブーストはまだ若い苗木です。大きく育てば、自分よりも長く生きるかもしれない。
ヨイチは自分の家族として「私より先にこの世を去る」ことがない存在を選んだのかもしれない、と想像させられます。

まだ苗木だからこそ、アルブーストはグランダールボのように地に根差していません。植木鉢をヨイチが持ち運べば、一緒について来てくれる。
そんな存在に話しかけるヨイチの姿を見ていると、40年後の彼がひとりではない安心感と、言い表せない苦しさのようなものを感じます。


グランダールボとアルブースト

グランダールボがどうなったのか、映像によってそれは暗に示されます。

世界にはさまざまな巨樹伝説が存在します。その中には、「何度切り倒そうとしても切り倒すことができない」という伝承があります。
巨樹をなんとか切り倒そうと人々が奮闘しても上手くいかないという物語からは、大きな樹木に対して人々が畏怖を抱いていたことがわかります。

神々しい巨樹であったであろうグランダールボが人間の手によって呆気なく切り倒されてしまう様子は、映像であったとしても胸に迫る苦しさがありました。
ヨイチの生きる森とは全く異なる速さで変化を続ける文明の中で、グランダールボは巨樹としての超自然的な力を失ってしまったようにも見えました。

グランダールボは切り株となってしまいました。しかし、切り株からは「蘖(ひこばえ)」と呼ばれる萌芽が育つことがあります。

もともとは「孫が生まれる=孫生え(ひこばえ)」という意味を持ち、ひこばえが成長すると、また新しい木が生まれます。

私は、もしもアルブーストがグランダールボの切り株から生まれた「ひこばえ」であったなら、と想像しています。
グランダールボはその土地から動くことができず、開発の中で切り倒されてしまいました。
しかしその切り株から育ったアルブーストが、40年後もヨイチの父親として彼の日々を見守っていたなら、と考えてしまいます。

マジルがヨイチと話す時、彼はいつも切り株に座っていました。マジルを照らし出す照明は、いつも切り株に射していました。その切り株も、かつては高く大きな木だったはずです。
切り株には、木が生きた時間のぶんだけ年輪が刻まれています。そこにマジルが座る時、積み重なった時間の上に8歳の彼が生きていることを強く感じさせられます。
アルブーストもきっと、この森の中で流れた長い時間の上に育った苗木であり、そこにはグランダールボの生きた時間も積み重なっている。そんなことを考えさせられます。


チェロが語る物語

グランダールボの声は低くゆったりとしたものでしたが、アルブーストはその小さな姿に合った、高く可愛らしい声でした。

チェロはマジルの足音を奏で、その足取りから彼の感情を豊かに表現していました。しかしそれだけではなく、グランダールボ、アルブースト、フクロウ、さまざまな音を奏でています。
徳澤さんのチェロが作中のあらゆる音を表現する様子は、40年後のマジル自身がこの物語を紡いでいると捉えることもできます。
ヨイチの周りのあらゆる音を表現するチェロを聴いていると、『うるう』という作品全体をマジルの優しいまなざしが包み込んでいるように感じます。


徳澤青弦さんが『うるう』のために作った音は、アルバム『うるうの音』に収録されています。

このアルバムの発売は2020年2月19日、横浜公演の初日に発表されました。
しかし当時劇場で配られたフライヤーでは、アルバムのタイトルは『うるうの音楽』となっていました。

横浜公演で配られたフライヤー

『うるうの音』というタイトルには、『うるう』の中で奏でられているのはその世界を形作る「音」である、という意図を感じます。
背景音楽、サウンドトラックとしての役割もあるけれど、それ以上にこの作品においてチェロが担っているのは「ヨイチの生きる世界の中に響く音」だったのだろうと受け取っています。

彼のチェロがヨイチの喜び、悲しみ、寂しさ、さまざまな場面に寄り添い続けてくれることが、『うるう』の優しさだと思います。


【うるう日記】2020.2.27 大阪公演2日目

私が最初に観た『うるう』は、2012年のサンケイホールブリーゼでした。
それから2016年、2020年と、必ずサンケイホールブリーゼでの『うるう』を観ました。
3回の『うるう』全てを上演した劇場は、札幌のかでるホールとサンケイホールブリーゼだけです。

色々な劇場で『うるう』を観ましたが、自分にとってこの作品はサンケイホールブリーゼという劇場が一番馴染んでいるように感じられました。
他の地方公演の劇場よりはかなり大きな劇場ですが、自分にとって『うるう』はこの距離感で受け取る作品でした。
それでもブリーゼで観る『うるう』はなぜか近くに感じられて、その気迫が真に迫ってきました。
チェロの音の響き方も、ブリーゼで聴いたものが自分にとっては一番鮮明な記憶となっています。


2012年の初演を当日券で観た、前方下手側に一番近い席。
あの距離で、あの舞台を、あの空間で見ること。一瞬で感覚が別物になった。
4日前に観たはずなのに、すべてが違う感覚。ずっと胸が鳴っていた。
前の席だからか、音の響きが前だからか茫洋としていた。夢の中の音のようだった。最後の音も明朗ではなく、柔らかい。
同じものを観ているのに4日前ではなく、ずっと前に戻ったような感覚だった。
ヨイチがそこにいるという強烈な感覚、8年前と同じなのかもしれない。
ふくろうオバケが目の前に迫ってきた。
ゆっくりとした間があって、全体的に一つ一つが丁寧に発せられていた。
大阪はとにかく笑いが多い。
 
・クリマツ!の時の動き、どしっとして杖をついた人をしていた。
・日記を書いている時、楽しそう。
・演技の「型」の美しさを常に感じていた。
・「100メートル、200メートル」楽しそう。オリンピックの偉い人の下り、表情、言い方、くるくると変わる。
・「おいで」 大人のやさしさ、表情、頼もしさを感じた。
・旅人のくだり、ひざ開いて両手をのせて座っている。
・「いつもひとつたりない、いつもひとり余る」1つ1つ置くように、ていねいに間がある。
3つ目の箱を掴めた時、「でも結局いつもひとつたりな、おーいっこくらいいけんだろ」最後の一つを取った瞬間、子供の声がうしろから聴こえた。
・「色んなものを数えたよ。…え?よしわかった。じゃあ一部紹介してあげよう」マジルが見たいと言っている会話の流れだった。
・統計の表、手書きっぽい。
・「しゃりを、ネタはずして、ひっくり返して、ワサビの方を下にして、もう誰もついてきていない気がする。自分でもわからなくなってきた! だんだんわさび醤油ができる。これが32人もいたんだ!」
・「春はなにげなく夏になるんだ 夏はやんわりと秋になるんだ 秋はしれっと冬になるんだ」
・「ものすごくはなれてるじゃないか」それ自体の言い方は普通。直前に間があった。
・「なんだそんなかすり傷くらいで(ファーレ レーラ)めそめそそんな、つかまれ」土を払って席につかせる。
・ドクダミをつけて、「大丈夫!」
・穴に落ちる前、「あれ帽子どこいった?」穴の中をのぞき込んで落ちる
→這い上がり、「ほら帽子!」と投げ渡し、「笑い転げてんじゃないよ!」ひざに葉っぱを二枚こすりつける。
・「今日はっていうか、もう来ないのかな」表情のとまどい、すべてが伝わってくる。
・お面をかぶって「ばばーん!」→「何?どうした?」
・「待って!」の切実さ「ちょっと…」考えて、止まって、「ついてこい」
・お面の下、口元に笑みが見えた。
・まちぼうけを聞く姿、前奏にうなずき、メロディに合わせて「待ちぼうけ」と口を動かす(きいたことはあって、思い出しているような)少しうなずいて揺れている。
・「これふくろうじゃないな。誰だ?」の時も楽しそう。
・ふくろうオバケ、怖いし、面白いけど、滑稽で不気味。
・「マジル、聞いて。 あのね」
・「よろずやのお嬢さんが、いたって普通の男のところに嫁にいった」
・「だから私は! 森に逃げたんだ」強い語気。消える弱さではなかった。
・「私は数百年を…」目がはなせない「必ず」の強さ。「私をばかヨイチとはやしたてたやつらも、みんな、「みんな」」強い声。
・「だから私は、人を好きにはならない」うなずいて、納得するように。
・「一人になりたがるくせに…」きいて、とまどうように、ごまかすように、しばらく顔を動かして、「ほら、でももう、」
・「さあ……もう帰れ」こらえて何かを呑み込むような間 震えた声。
「じゃあね」少しこもったようなかすれたような声。
・「まだわからないのか!」の気迫。
・「うるう!うる、」叫んだあと、すぐお面をとって、向こうを見て、ハッと少し悲しそうな表情だった。
・「そこへ     うさぎが」何かを呑み込む間があった。
・「うるーーう」口が開いたままだった。
・40年前の楽譜の色、質感、破れ
・じゃあ、そろそろだね!「だね!」
・幕が下りた後、周りが黒いから不思議な感覚。幕というより、箱のふたのような視界だった。本当に目の前が森。
・下手前方から見ると徳澤青弦さんの見え方が完璧すぎる距離感。本当にすべてのサイズがブリーゼは完璧だった。

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