2024.1.23「いつもひとり余る」
うるうアドベントカレンダー11日目。
今日は2024年1月23日。
4年前の今日は、うるう豊橋公演2日目です。
ヨイチが独白するたび、彼は自らの人生を振り返ってそう言います。
「余る」ということ
『うるう』の物語は、森の中でヨイチがマジルと出会ってからの日々と、ヨイチによる人生の独白が交互に描かれています。
前半の独白の場面において、ヨイチは「余る」ということについて語ります。
余る、とはどういうことでしょうか。
日本国語大辞典の「あま・る 【余】」の項目から引用します。
基準を超えた数量が集まった結果、そこからあふれ出たものが「あまり」となる。余った結果、ヨイチのための物や場所が足りなくなってしまう。
二人三脚で、組体操で、騎馬戦で、彼のための場所だけがひとつ足りず、彼だけがひとり余る。
マジルも同じような悩みをヨイチに対して打ち明けます。しかしマジルには監督、司会者、バンマス、伴奏者、主役の旅人として、彼のための居場所が用意されています。
穴と雨
「あまる」の語源にはいくつかの説があります。日本語源広辞典には以下のように記載されています。
数多のものがあるために溢れたものが「あまる」ということのようです。
この点は、「あまる」という単語そのものの意味と一致しています。
このほか、日本語源大辞典には以下のような意味が記載されています。
穴の中がいっぱいになり、溢れ出たものを意味することから「穴満たれり(アナミタレリ)」が由来となった説があるといいます。
この由来からは、「うるうびと」にも共通する落とし穴の存在が思い出されます。
またこのように、「雨滴たり(アメシタタリ)」が由来となっている説があるようです。
雨が静かに降るなか、ヨイチが傘の下でうつむいたまま舞台の奥に消えていく場面を思い出します。
このように、『うるう』の劇中には「あまる」の語源に関する「穴」や「雨」といったモチーフがちりばめられています。
曲の変化
「いつもひとつ足りない いつもひとり余る」というセリフから始まり、チェロに合わせて言葉遊びのように語る場面。
再々演ではこのような音が奏でられていましたが、2016年の再演時の曲は大きく異なっていたと記憶しています。
ヨイチが言葉遊びをする台詞回しは変わっていませんが、後ろで演奏されるチェロは、もっとリズミカルで愉快な雰囲気でした。
それに合わせて、ヨイチの語りも少し楽しげでミュージカルに近い雰囲気であったように記憶しています。
(ちなみに、初演の時はまた違ったラップに近い雰囲気だったような気がしていますが、あまりにもうろ覚えなので、記憶が鮮明な方のお言葉をお待ちしております。)
再々演でこのような雰囲気の曲に変化したことに最初は驚きました。
しかしこの場面におけるヨイチは、言葉遊びで戯けているように見えて、彼の「あまりの1」という人生を通しての哀しみを語っています。
そうした雰囲気には、再々演で奏でられた音がよく似合っていたように感じます。
きりのいい数字
ヨイチは数を数えることのない森の中に生きることを好みます。数を数えなければ、何かが足りないこともなければ、何かが余ることもありません。
その一方で、ヨイチはオリンピックの競技のようにきりの良い数字を好みます。
彼自身が「足りない」「余る」状態の中で生き続けてきたからこそ、自分のような余りが生まれることのない、割り切れる数字に安心感を覚えるのかもしれないと想像します。
4年前の今日は『うるう』再々演の11公演目です。
『うるう』初演は48公演、再演は41公演。
48+41+11=100
2020年1月23日は『うるう』通算100公演目の日でした。
ヨイチにとってきりの良い数字は好ましいものである一方、『うるう』に出会った私たちとっては「あまりの1」がとても大切な存在になっています。
あまりの1は愛おしい、けれどきりの良い数字も祝いたい、そういった複雑な心持ちで100公演目を迎えた記憶があります。
『うるう』の物語を読み返していると、ヨイチ自身もまた、余ること、数を数えることに対して入り組んだ思いを抱えていると感じます。
次の更新は北九州公演の4年後、1月25日です。
【参考文献】
前田富祺 監修『日本語源大辞典』小学館、2005年
増井金典『日本語源広辞典 増補版』ミネルヴァ書房、2012年
『日本国語大辞典』ジャパンナレッジ、https://japanknowledge.com/library/ 参照2023-1-16
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