2024.1.22「チェロ」
うるうアドベントカレンダー10日目。
今日は2024年1月22日。
4年前の今日は、うるう豊橋公演1日目です。
妙な引用をしてしまいましたが、今回は『うるう』に欠かせない存在であるチェロについて取り上げたいと思います。
チェロという楽器
チェロは同じ弦楽器であるヴァイオリンやヴィオラよりも低い音を鳴らすことができると同時に、弦が長く音域が広いため、高音を出すこともできます。伴奏に徹することも高音域でメロディを奏でることもできるため、チェロだけでアンサンブルを行うこともあります。
弦楽器の中でも、チェロの中低音は人の声に近いとよく言われています。
「いつもひとつ足りない いつも一人あまる」の場面では、チェロがヨイチのセリフを真似るようにそのフレーズを繰り返します。「うるーう」というフクロウの鳴き声も、またグランダールボやアルブーストの話し声も、チェロという楽器だからこそ奏でられる音であると言えます。
チェロはヴァイオリンと同じように3-4歳から始められる楽器ではありますが、ヴァイオリンと異なり全身で体を支える必要があるため、身体が完成してきた小学生頃から始めることが多い楽器です。
マジルは8歳ですが、まだ楽器を始めたばかりなのではないかと想像されます。(奇しくも徳澤さん自身も8歳でチェロを始めています。)
マジルはクラスの合唱でピアノの伴奏をしており、チェロだけではなく「色んな楽器が弾ける」ようです。(初演の頃は「楽器全般いける」と言っていたように記憶しています。)
おそらく4歳頃からピアノを始め、楽譜などの音楽的な基礎を身につけた上でチェロを始めたのではないかと推測しています。もしかすると、ヴァイオリンも弾けるのかもしれません。
森とチェロ
ところで弦楽器は、様々な楽器の中でも木から生み出されているという印象が強い楽器であると思います。
ピアノや木管楽器なども木から作られますが、その外見が木そのものに一番近いのが弦楽器なのではないでしょうか。
チェロを含めたヴァイオリン属の楽器は、主にカエデとマツ科の針葉樹であるトウヒによって作られています。
また弦楽器を演奏する際の弓には、音を出しやすくするためにマツの木から分泌される松脂(まつやに)を塗って演奏します。
このように、弦楽器にはさまざまな部分で木を由来とするものが使用されています。
思えば抽象的な舞台美術が多い『うるう』という作品において、現実の森や木にもっとも近い存在は、チェロであったと言えるかもしれません。
いせひでこさんの絵本にはチェロや音楽がモチーフとなっている作品が数多くあります。
『チェロの木』という絵本では、森の木を育てる祖父、その木からチェロを作る父、そのチェロを演奏する子と、森からチェロという楽器が生み出される営みが描かれています。
宮澤賢治とチェロ
チェロといえば、ここでもやはり宮澤賢治を彷彿とさせます。『セロ弾きのゴーシュ』はもちろんのこと、宮澤賢治自身もチェロを演奏しました。
賢治は1926年に、チェロを習うために楽器を抱えて上京しています。チェロも演奏する新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のトロンボーン奏者であった大津三郎の門を叩き、3日間チェロを教わったといいます。
たった3日のレッスンでどれほど上達したのかは不明ですが、このチェロは彼が死の床に臥すまで、賢治と共にありました。
物語に寄り添うように奏でられる楽器がチェロであるということが、やはり宮澤賢治作品と共鳴する『うるう』の空気を作り上げているように思います。
1931年、上京中に賢治は病に倒れます。その時彼が下宿していた神田の八幡館のあった場所は、現在カザルスホールというコンサートホールになっています。
この時、賢治は死を覚悟して遺書を書いています。彼が遺書をしたためた八幡館の部屋は、ちょうどカザルスホールのステージのある場所にあったといいます。
賢治が住んでいた場所にチェリストのパブロ・カザルスの名を冠したホールが建てられているというのは、不思議な縁を感じます。
あんたがたどこさ
冒頭で引用した場面の最後、ヨイチの歌を引き継ぐように、チェロは「あんたがたどこさ」を奏でます。『うるう』にはいくつかの有名な曲が引用されますが、この曲もその一つです。
「あんたがたどこさ」はいわゆる手毬唄ですが、問いかけと答えが交互にやってくる形式の「問答唄」とも呼ばれています。
歌詞の中には肥後が登場しますが、歌自体がどの地域で歌われるようになったかという問題には諸説あります。幕末に薩長連合軍が川越に駐屯した際、川越の「仙波山」にちなんで生まれた歌であるという説もあるようです。
また、この歌が現在のように手毬唄として子供達に普及したのは幕末〜明治よりも後のようです。
手毬を使った遊びは江戸時代から存在していましたが、現在のようにボールを跳ねさせながら、時に足にくぐらせるようにして遊ぶ形式は、明治14年にドイツからゴム製の毬が輸入された後と考えられています。
ゴム製のよく跳ねる毬が普及するとともに、現在の「あんたがたどこさ」の遊び方が広まったことを考えると、明治中期以降の遊びであると言えます。
ヨイチがどの時点でこの遊びを知ったかはわかりませんが、彼は1900年代初頭まで小学校に通っていた計算になります。
4回も同じ学年を繰り返しているあいだに、子どもたちの中での遊びも移り変わっていったはずです。その中で少しずつ新しい遊びを覚えていきながら、当時の同級生たちに順応しようとしていたのかもしれません。
少しチェロから話がそれましたが、「あんたがたどこさ」の民謡的なチェロの旋律が薄暗い劇場に響くのを聴いている時間が、自分にとっては何よりも『うるう』だと感じる瞬間でした。
【参考文献】
太田信一郎『童歌を訪ねて』富士出版、1988年
横田庄一郎『チェロと宮沢賢治 : ゴーシュ余聞 (岩波現代文庫. 文芸 ; 276)』岩波書店、2016年
山本清洋「わらべ歌「あんたがたどこさ」の発祥を巡る考察」『豊岡短期大学論集』 (16)pp、pp.85-93、2020年
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