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2024.2.22「第一回国勢調査」

うるうアドベントカレンダー23日目。
今日は2024年2月22日。
4年前の今日は、うるう横浜公演4日目です。

その日はいつもと何かが違った。
いつもひとつ足りない。いつもひとりあまる。
それなのに、そのビラに限っては、いくらでも手に入るんだ。
そこにはこう書かれていた。

「第一回 国勢調査」

15歳のヨイチの手に降ってきたビラに書かれたその言葉が、その後の彼の日々を変えてしまうことになります。


第一回国勢調査の宣伝活動

日本においてはじめて国勢調査が行われたのは1920年10月1日。作中で言及されているように、ヨイチがちょうど15歳のうるう年でした。

アメリカで1790年に始まった人口センサスにならい、世界中で近代的な人口調査が行われるようになりました。
日本でも1902(明治35)年、「国勢調査ニ関スル法律」が定められ、1905年には第一回の国勢調査が行われる予定でしたが、その前年に日露戦争が始まったことで、予算上国勢調査の実施は延期せざるを得なくなりました。
その後も第一次世界大戦の勃発により調査は延期され、1920年にようやく第一回国勢調査が実施されることになります。

上の記事でも取り上げたように、1920年の第一回国勢調査ではホレリス式のタビュレーティングマシンが使用されました。


それ以前に日本国内で行われていた統計調査は、経済的・教育的に比較的恵まれた、限られた人々に回答を求めるものでした。人口を把握する手段として1872年以降は戸籍から人口統計が作成されていましたが、届け出の間違いなどが多く、実態とは大きくかけ離れていたようです。
こうした現状に対し、国勢調査は一般の人々全員に直接回答を求めることで正確な統計を調べる、他に類を見ない調査として実施されました。

しかし、それまでこうした統計調査になじみのない多くの人々に対して国勢調査を周知し、参加を促すことは容易ではありません。
そこで1920年の第一回国勢調査に向けて、さまざまな方法で宣伝活動が行われました。国勢調査実施の直前である1920年8~9月にかけては宣伝部隊が組織され、全国を行脚したといいます。

『国勢調査宣伝官報広告集』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

『うるう』の映像でも登場したこのポスターは、当時国勢調査の広報のために作られたものでした。ヨイチが受け取ったビラもこのデザインのものだったのかもしれません。

国勢調査は
国家社会及国民生活の実状を明らかにし
善政の基礎を作るに在り

このポスターにある文章では、国勢調査が何のために行われるのかという目的を説明した上で、具体的にどのように調査が行われるのかが説明されています。

この他にも国勢調査のポスターにはさまざまなデザインがあり、『うるう』を知った上で見ると、その多くに強く感じ入るものがあります。

ヨイチが天から舞い落ちる無数のビラを拾った時の景色と重なる絵です。不特定多数の人々に届けるのに当時もっとも有効な手段であったとも言えるでしょう。
彼がこのビラだけは足りなくなることなく受け取れてしまったということに、何とも言えない苦しさがあります。

国勢調査宣伝ポスターの多くにフクロウの図柄が使われているのは、やはり西洋におけるフクロウの知的なイメージに基づいた、欧米列強と並ぶ文明国として重要な調査であるという印象付けのためと思われます。

此の文明事業に協力せよ
最も慎重に最も正確に
五大強国の誇りを現せ

図柄は言わずもがな、周囲に書かれた語気の強い標語に追いつめられるような感覚があります。
1920年当時は日露戦争と第一次世界大戦を経て、日本社会の構造が急激に変化した時代でした。国勢調査はこうした変化のただ中にある日本において「国民統合の一手段」としての側面を持っていました。

怠る勿れ国家盛衰の標準時

10月1日0時という切りの良い時間ぴったりに始まることが強く押し出されています。
これは国勢調査が「特定の時点における調査」であるために指定された日時ですが、当時の日本においてはこのような西欧的な時間感覚はそれほど一般的ではありませんでした。
そのため宣伝においても、「10月1日午前零時」を強調したものが多く作られています。


国勢調査に混じらぬお人は

こうしたポスターやビラによる宣伝のほかにも、講習会や講演会、演劇や活動写真など、あらゆる手段を講じて広報活動が行われていました。

国勢調査の宣伝隊(徳島)の面白い格好の人々

その中には川柳や唱歌、都都逸、数え歌といった形式のものもありました。
こうした短文は各地の行政当局によって懸賞金付きで募集が行われ、入選したものが宣伝に使われていました。

1920年当時に発行された『国勢調査宣伝歌謡集』を見ると、「センサス節」というものまであります。人口センサス=国勢調査にちなんだ歌がここまで多く作られていた状況からは、当時の宣伝への力の入り方と世間の盛り上がりが伺えます。

宣伝のために作られた標語や川柳の一部を見てみましょう。

国勢調査は文明国の鏡

一枚の紙で御国へ御奉公

上の日めくりカレンダーのポスターにも共通する標語です。1920年当時の日本は第一次世界大戦における戦勝国としての気分が高まっており、アメリカから始まった国勢調査を行うことは文明国として名誉なことであるという印象を与える宣伝が多数行われていました。

産声に 一人追加を 急に書き

この川柳は、新生児であっても全て調査の数に入るということを伝えています。たとえ言葉を発せない生まれたばかりの子であったとしても、全員が国勢調査の対象であることが強調されていました。

人なれば人の数に洩れるな

自己を偽るは国家を偽る

たった一つのお前の嘘で皆の苦労が水の泡

大阪府で使用されたポスター

有りのままを申告すること
一人も申告に漏れぬこと

とにかく嘘を書かず一人も漏らすことなく、正確に申告をしろと強調されています。
こうした宣伝が日々行われている中で、ヨイチは何を思ったのでしょうか。

国勢調査に混じらぬお人は死んだお方か影法師

この都都逸を知った時、『うるう』の物語との共鳴に驚かずにはいられませんでした。
1960年生まれのヨイチは、1920年時点で60年を生きています。国勢調査では当然、生年月日や職業も記入する必要がありました。
国勢調査に混じることができないヨイチは、この国にとっては「影法師」であったのだということを、強く実感させられる宣伝文です。


1920年10月1日

このようにさまざまな宣伝の上で実施された第一回国勢調査ですが、やはり初めての国勢調査にはさまざまな困難があったようです。

10月1日に定められたのは「冬は積雪が深く」「夏は炎熱が激しく」「春は旅行遊山するものが多く」秋が妥当と考えられたためでした。10月1日という日程は現在の国勢調査においても変わっていません。
しかし1920年の10月1日は台風のため、前夜には各地で洪水被害が出たといいます。こうした大変な状況で調査が行われたことで、当時は全国で逸話や美談が生まれたようです。

また、当時は文字が読めない人や漢字に慣れ親しまない人も数多く存在しました。そうした人々も国勢調査に参加できるように、申告書に記載された漢字にはやまとことばの振り仮名が振られました。

当時の国勢調査申告書


「全く書けない人は書いて上ます」


このように様々な困難を伴った調査であった一方で、結果的に調査は順調に進んだといいます。
その理由として、宣伝でも掲げられていた「文明国の鏡」「一等国としての誇り」といった意識が強く、国勢調査に参加すること自体が名誉あることとして多くの人々に受け入れられたことが挙げられます。

このような国勢調査を実施する側でもある各地の調査員は、当然名誉ある職とされました。第一回国勢調査の調査員には約26万人が選ばれています。
当時の国勢調査の調査員には「文字を解し、事理に通じ、名望あるもの」がふさわしいとされました。こうした条件に合致しており、知的水準の高さや地域の利害対立から距離を保っている存在として、教員が調査員に多く選ばれたといいます。
もしも呉村先生が国勢調査の調査員に選ばれていたとしたら、ヨイチの父親が調査から逃れるために相談するきっかけの一つになったかもしれないと想像します。

国勢調査の開始によって、ヨイチは学校を転々として生きていく手段を奪われます。
呉村先生に引き取られた彼は、学校には通わず先生のもとで勉強を続け、働きに出ることもありました。
しかし彼の存在は時は経るごとに、この国の社会において影法師のような存在になっていきます。


この記事に登場するポスターの一部は、統計局の施設である統計博物館(旧統計資料館)で撮影しました。

私が見学したのはリニューアルオープン前のため、展示内容は変更されている可能性がありますが、国勢調査のポスターや当時使用されていた計算機などが展示されています。

当時の様々なビラ類
各時代の国勢調査ポスター
川口式電気集計機

興味のある方はぜひ訪れてみてください。

[参考文献]
臨時国勢調査局 [編]『國勢調査宣傳歌謠集』1920年
印刷局 編『国勢調査宣伝官報広告集 第1回(大正9年7月1日至9月30日)』印刷局、1920年
国勢調査編纂会 編『国勢調査記念録』国勢調査編纂会、1921年
佐藤正広『国勢調査と日本近代(一橋大学経済研究叢書 ; 51)』岩波書店、2002年
佐藤正広『国勢調査日本社会の百年(岩波現代全書 ; 061)』岩波書店、2015年
『国勢調査100年のあゆみ』総務省統計局、2019年


【うるう日記】2020.2.22 横浜公演4日目

・私はね、数百年を生き続けるかもしれないんだよ の時、あまりにも真に迫ってきて泣いてしまった。
・「コヨミさんも、」と言う時、伸ばした手が空を掴む。
・抱きしめられる時、マジルが彼の左腕を取って、強く体を引き寄せているのがわかった。ヨイチは驚いた表情で右手で頭を包み込み、耐えるように俯いて抱きしめていた。
・「さあ、もう帰れ  じゃあね」が本当に優しい声で、寂しかった。無理に元気を取り繕うそれではなくて、マジルに対する愛情が滲み出るような声だった。
・40年後の待ちぼうけ、最初は美しく、それでも柔らかい声だったのが、「そこへうさぎが跳んで出て」でチェロが同じ音を揃えて奏でた時から、だんだんと大きく響く、力強い声になっていった。
・「君と私が? 友達に...?」の後うろたえながら、「なにを、藪から棒に、とんちんぷんかんちんぷんなことを」と言った。再演であったかは覚えてないけど初演にあって、再再演で一度もなかった「藪から棒に」が戻ってきた。
・「彼は私に「友達になろう」って、言ってくれているのに」の後、グランダールボは「うーん、それで良いんじゃないか」と言っていた。ヨイチはそれに「そうでした、それで良いんでした」と返す。



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