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2024.1.25「タビュレーティングマシン」

うるうアドベントカレンダー12日目。
今日は2024年1月25日。
4年前の今日は、うるう北九州公演1日目です。

え? あの機械?
あれはタビュレーティングマシンといって、1000万まで数を数えられる計算機だ。
ああ、私が作った。あの頃はまだ、電卓がなかったからなあ。

マジルに尋ねられたヨイチは、大きな機械を紹介します。


タビュレーティングマシンとは

タビュレーティングマシン(tabulating machine)は、日本語では一般に作表機と呼ばれています。

タビュレーティングマシン

装置のカウンター部分には、10個の目盛りが4列並べられ、それぞれの目盛りには1から100までの目盛りと2本の指針が付いています。
1本の指針で1、1000といった位を、もう1本で1〜100までの数字を表すことによって、組み合わせて数値を表現することができます。

タビュレーティングマシンは現在コンピュータで行われるようなデータ処理の作業を、パンチカードシステムという仕組みを用いて行っていました。

パンチカード

パンチカードシステムでは、パンチカード(穿孔カード)と呼ばれる厚紙に穴をあけ、その穴に金属のピンを刺して電気を流すことによって、穴の位置や数で情報を記録していました。

ハーマン・ホレリス

作品内の背景映像で説明されている通り、タビュレーティングマシンを作ったのはハーマン・ホレリスです。

Herman Hollerith(1860.2.29 - 1929.11.17)

『うるう』という作品のことを調べ始めてまず最初につきあたる発見は、おそらくこのホレリスが1860年2月29日、つまりヨイチと全く同じ生年月日であるということでしょう。

ドイツ移民の子としてニューヨーク州バッファローに生まれたホレリスは、内務省の統計調査室の職員となり、国勢調査の仕事を行うなかでタビュレーティングマシンを発明することになります。

1890年の国勢調査

当時のアメリカでは10年に一度、国勢調査が行われていました。
1880年の国勢調査においては、人口の増加に加え、複雑な人口構成の調査を行うようになったことで、 1887年になっても集めたデータの分析が完了していませんでした。これほど時間がかかっていては、データを分析し終えた頃にはその数字もとっくに変化してしまっています。

そんな状況のなか、ホレリスはタビュレーティングマシンを発明しました。統計調査室内でも評価を得て、1890年の国勢調査ではタビュレーティングマシンが使用されることになりました。
その結果、1890年の国勢調査ではデータの分析に要する時間が2年にまで短縮され、総人口の集計結果に関しては、なんと調査の一カ月後に発表することができました。
このようにアメリカにおける国勢調査は、タビュレーティングマシンによって大幅に効率化されました。

1890年『Scientific American』に掲載されたタビュレーティングマシンを使用する様子

アメリカで国勢調査が成功すると、続いてオーストリアとカナダが国勢調査にホレリスの機械を使用するようになりました。また膨大な情報を処理するためにパンチカードのサイズを大きくしたことで、多くの大企業でも使用されるようになりました。
『うるう』にも登場する1920年の日本での第一回国勢調査においても、アメリカからホレリスの機械を輸入して集計を行っています。

ホレリスはタビュレーティングマシンの発明後、1896年に「タビュレーティング・マシン社」を設立します。この会社はその後、合併ののちに現在のIBM社となりました。

ヨイチとホレリス

ヨイチと全く同じ生年月日の人間が生み出した機械によって、国勢調査が効率化し、結果として世界中で国勢調査が行われるようになったという事実を、どのように受け取れば良いのかいつも悩みます。
国勢調査が正確に行われるようになった結果として、ヨイチは社会の中から居場所をなくしたとも言えます。

タビュレーティングマシンによる初めての国勢調査が行われた1890年当時、ヨイチは6〜7歳。彼がタビュレーティングマシンを自らの手で作ったのは、もっと後であると推測されます。

ああ、いろんなものを数えたよ。

ヨイチはタビュレーティングマシンを使って、色々なものの数を数えたと話します。彼が「数を数える」ことに執着し始めたのがいったいいつ頃だったのかはわかりませんが、おそらく国勢調査などにおいてタビュレーティングマシンが世界中に普及した頃だろうと想像しています。

ヨイチがハーマン・ホレリスという存在のことを知っていたのか、どのようにこの機械を作ったのか、気になる点はつきませんが、想像することしかできません。
ただ彼がこのような機械を自ら作り出せたということは、4倍の寿命を持つ彼が何かを学び、何かを生み出すことに十分な時間を持てたということの証左だと思っています。

【参考文献】
ジョエル・シャーキン『コンピュータを創った天才たち : そろばんから人工知能へ』草思社、1989年
ペギー・A.キドウェル、ポール・E.セルージほか『目で見るデジタル計算の道具史 : そろばんからパソコンまで』ジャストシステム、1995年
クリスチャン・ワースター『コンピュータ : 写真で見る歴史』タッシェン・ジャパン、2002年
名和小太郎「パンチカード:消耗品として儲ける,周辺装置として稼ぐ」『情報管理』53(7)、pp.406-407、2010年
川崎茂「コンピュータの半世紀 ― 国勢調査を支える情報技術 -」『統計ヘッドライン』No.7、pp.15-18、2010年
チャールズ・イームズ, レイ・イームズ ほか『コンピュータ・パースペクティブ : 計算機創造の軌跡(ちくま学芸文庫 ; イ43-1. [Math & science])』筑摩書房、2011年
東京理科大学出版センター 編ほか『実物でたどるコンピュータの歴史 : 石ころからリンゴへ(東京理科大学坊ちゃん科学シリーズ ; 2)』東京書籍、2012年


【うるう日記】2020.1.25 北九州公演1日目

せっかくだから…と思い、はかた号で行きました。帰りは新幹線にしましたが、どう考えても飛行機のほうが安いし早かったです。


北九州芸術劇場は青い光が印象的なホワイエだった記憶があります。


以下、北九州公演1日目の感想。

テキストを洗い直したのだろうかというくらい、全ての台詞が新鮮に聞こえた。今まで定型的だったセリフ回しも、改めて言葉として言い直しているような印象があった。
チェロの低音の響きが弱めだった気がする。音量なのか、音響なのか。
私は大劇場のうるうの方が好きかもしれない(ブリーゼが親なだけかもしれない)。
うるうに関しては、客席の反応に影響を受けるライブ感よりも、遠い方が好きなのかも。

・客入れ、直前になると木立のざわめきが消えている(鳥の鳴き声だけになっている)気がする。 直前に静かになるのはその効果なのかもしれない。虫の鳴き声も聞こえた。

・動きが止めるところを止めている印象があった。

・マジルと話す時、会話が速いというか、テンポがよかった。おじさんとして会話している感じ。

・いつもひとつたりない、1つ手に入った箱は一回転して芸をするようになった。消える時、シュッと消えて切なかった。箱がが増える間、どんどん切羽詰まる感じ。

・穴に落ちる時、客席に降りる前「あー」と落ちている声を出しつつ、手を合わせてお客さんに荷物を避けてもらってから落ちた。

・「うさぎが捕まえられないのだって、君のせいなんだ!」子供っぽい声。

・弓を受け取る時、「ちょっとお借りします」ではなく、クネクネしたまま受け取る→徳澤さんが引き気味で渡す。

・屈折後、「では誰が 誰だったら…」淡々と投げる先を探している より屈折感がある

・「胸がいたい…」の間にマジルが後ずさるように少しずつ去ろうとする音

・森の奥へ向かう時、ヨイチがマジルに気付いて立ち止まり、お面を取って「大丈夫」と言い、手を握る。指が順番に織り込まれるのがはっきり見えて美しかった。

・影絵のうさぎは多足のまま消える

・「だから私は、人を好きにはならない。友達は、つくらない」前までの決意という言い方じゃない、ちょっとニュアンスが違った。

・アルブーストに対して「興味ないか」アルブーストが何か言って「うんうんごめんごめん」

・アルブーストが「オリンピック」って言った!
↑この人はこの頃からグランダールボとアルブーストが何を言っているのか大体聞こえるようになっています

・10大会前の日記を開いて楽譜が落ちた時「ああ…」「あのころか…」という感じが無くなくなり、黙って本に挟んで仕舞っていた。
ヨイチは覚えているんだと思った。思い出しているもではない、何度も繰り返し歌った曲、日に焼けた楽譜

・まちぼうけの歌い方、迷いがない。知っているものをていねいにまっすぐ向いて身じろぎせず、きれいに歌っている。

・横を向いて歩くときの映像、流れるのでなく浮かんで消えるようになった。

カーテンコールはスタオベだった。深く長いお辞儀。「聞けば足元の悪いなか…」「気を付けて帰ってね」ヨイチの言葉のようだった。



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