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2024.2.24「森で出会った少年」

うるうアドベントカレンダー25日目。
今日は2024年2月24日。
4年前の今日は、うるう横浜公演6日目です。

江戸、明治、大正、昭和。
戦争、災害、事件、事故。
政治、経済、文化、流行。
時代の移り変わりは、 ずっと生きている私には、激しすぎた。
とてもじゃないが、ついていけなかったんだ。
だから私は、森に逃げたんだ。

ヨイチはマジルに語ります。


152年

ヨイチは152年を生き続けました。
『うるう』の物語が生み出される時、小林さんはヨイチの年表を作ったと初演時のインタビューで語っています。

1860年から2052年までの年表

これは個人的に作ったものですが、ヨイチの年表を作ると、その人生がいったいどれほどの長さであるかを実感します。

(かなり小さいので以下のpdfを拡大してご覧ください。)

当時の社会情勢や事件を並べながら彼の人生を眺めると、その152年がどれほど激動のただ中にあったかということが実感されます。
彼の時間感覚の中でこういった世界に身を置くことがどういうことなのか、私たちには想像することもできません。

それと同時に、『うるう』の物語に用いられているさまざまなモチーフやできごと、ヨイチとの結びつきを感じる人々が、全て彼の生きた時代の中にあった存在であることもわかります。

年表を見ると、ヨイチが小学生の頃には、エスペラント語が考案され、アメリカでタビュレーティングマシンによる国勢調査が行われています。
ヨイチが中学生の頃にはドイツでキメラ植物の実験が行われ、呉村先生と過ごした15-20歳の頃には日本でエスペラント語が流行しています。宮澤賢治がエスペラント語を学んだのもこの頃です。
ヨイチが身につけたことや習慣としていることの多くは、彼が多感な時期を過ごした時代に起きた出来事に関わっています。

今までの記事でも取り上げたように、エスペラント語や生物学、コンパニオンプランツ、国勢調査、果ては甘食といった細かな小道具に至るまで、『うるう』という作品は全てヨイチの周りにあったもの、彼が生きた激動の時代の中から生み出されたもので構成されています。


森で出会った少年

上の年表の右側には、ヨイチが出会った人々についても記載してあります。
この図を見ると、彼が出会い、そして別れた存在がどれほど多かったかということを改めて感じます。

私はね、数百年を生き続けるかもしれないんだよ。
これがどういうことか、君に分かるか?
私がどんなに人を好きになっても、必ず私より先にこの世を去っていくんだよ。
父も母も、クレソン先生も、コヨミさんも、
私をバカヨイチと囃し立てた奴らも、みんな、みんな!
だから私は、人を好きにはならない。
友達は、つくらない。

ヨイチが最も強く、その苦しみを吐露する場面です。
この場面のセリフは、再々演の中で少しずつ変化を繰り返していました。

父も母も、クレソン先生も、コヨミさんも、
私をバカヨイチと囃し立てた奴らも、森で出会った少年だって、一人残らずなんだ。

2016年の再演の頃から2020年の再々演の途中まで、ヨイチはこのように語っていました。

森で出会った少年だって、いつか、きっと。

再々演の途中から、この言葉の最後はこのように変化していました。

父も母も、クレソン先生も、コヨミさんも、
私をバカヨイチと囃し立てた奴らも、みんな、みんな!

そして横浜公演からは、「森で出会った少年」という言葉は消え去りました。
当時、この台詞が少しずつ変化していく様子を観ていた時の感覚は忘れることができません。

私が作ったヨイチの年表は2052年で終わっていますが、その先も彼の人生は続きます。
この先の未来でヨイチが再び同じ苦しみを経験することは、彼が一番良く知っています。

それでもこの場面でヨイチが「森で出会った少年」という言葉を出さなくなったことには、彼の優しさが感じられるような気がします。
目の前の少年に自分たちの未来にある現実をはっきりと示すようなことは、ヨイチならしないだろう。そう判断されてこの台詞は消えたのではないかと想像しています。

この作品は上演され続ける中でも、常に変化し続けていました。
作り手が作品そのものやヨイチ、マジルという存在に向き合い続けていることが感じられて、当時はただただ圧倒されていました。


次の更新はうるう大阪公演の4年後、2月26日です。


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