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2024.2.19「グランダールボ」

うるうアドベントカレンダー20日目。
今日は2024年2月19日。
4年前の今日は、うるう横浜公演1日目です。

ああ、グランダールボ。こんばんは。

……別に、楽しそうになんかしてないよ。

影絵遊びをしていたヨイチに、グランダールボが低い声で話しかけます。


父親の木

このグランダールボの木は、たぶん1000年は生きている。
紹介するよ。彼は私の、3人目の父親なんだ。

ヨイチはこう言ってグランダールボをマジルに紹介します。

グランダールボのような巨樹・老樹は日本に数多く存在し、その実態については環境省によって調査が行われています。
日本で最も樹齢が長いと言われる屋久島の縄文杉は、現在では樹齢3000年ほどであると考えられています。

日本の巨樹の中には神社などにおいて「神木」として祀られているものが多くあります。こうした信仰は、天に高く伸びた木を伝って神が降りてくる依り代としての役割を巨樹が担っていたと考えられます。
一方、「神体木」として木そのものが神の化身として捉えられ、信仰されている場合もあります。

グランダールボのように1000年生きているような木は、その巨大さや長命さといった点が樹木の中でも特別なもの・異様なものとして、人々に畏れ崇められてきました。
そうした特異な樹木の一つであるグランダールボは、特殊な体質を抱えて生まれたヨイチにとって、親しみを感じる存在だったのかもしれないと想像します。

同時に1000年以上の時を生きるグランダールボよような老樹は、ヨイチにとって唯一と言っていい自分よりも年上の存在であったともいえます。
この世に生きれば生きるほど、自分よりも長く生きる人間がいなくなっていった彼にとって、グランダールボは何よりも父親に近い存在に感じられたのかもしれません。

ヨイチの告白

声の低さやその大きな姿から、「父親」としてのグランダールボには厳格な印象があります。
彼がマジルに嘘をついていたことを問い詰める時、その音は上下に動きます。彼を責め立てるようにも聞こえる声には、厳しい父親のイメージが重なります。

……はい、わかっています。
私はこれ以上、あの少年と仲良くなるべきでは、ない。
はい。私は彼に、嘘をつきました。

グランダールボの問いかけに答えるヨイチの言葉は、まるで罪の告白のようにも聞こえます。

はい、その通りです。
タビュレーティングマシンで人の数を数えていたのは、数えるのが楽しかったからなんかじゃありません。
私以外にも余っている人がいないか、調べていたんです。
余らなくなる方法を、探していたんです。

ヨイチは数を数えることを楽しんでいたわけではないと告白します。
彼は以前、タビュレーティングマシンは今はもう使っていないとマジルに話していました。
ヨイチがタビュレーティングマシンを作り、数を数えることに没頭していた時期が、かつてあったのかもしません。

はい、その通りです。
スケッチブックに人の絵を描いていたのは、
絵を描くのが好きだったからなんかじゃなありません。
重複して数えないように、絵で特徴を記録していただけです。

ヨイチはスケッチブックにたくさんの人々の絵を描いていました。それも全て、「余っている人を探すために数を数える」ことが目的だったと彼は言います。

コヨミさんとの思い出の独白の場面で彼が語った「誰かがいなくなれば自分は余らなくなる」という言葉と通じるような、彼の抱える暗い感情のようなものを感じる告白です。
「うるうびと」と比べると『うるう』ではそういった部分に言及されることは少ないですが、ヨイチが一時でもそのような感情を抱えた時期があったということを想像させられます。
思えばスケッチブック上の人々が背景に映し出される場面で『うるうびとアナグラム』が演奏されていたことも、その示唆だったのかもしれないと感じます。

きりの良い数字は余りがなくて良い。余りの1であることは苦しい。もしかしたら自分以外にも余っている人がいるかもしれない。自分が余らなくなるためには、自分以外の誰かがいなくなればいい。
私たちが見ているのは、年齢で言えば38歳の、152年を生き続けて森にたどり着いたヨイチです。彼が152年のあいだに経たさまざまな苦悩を手に取って理解することは、到底できません。
けれどこの場面のヨイチの言葉からは、そうしたかつての苦悩やマジルには隠したい感情が、グランダールボとの対話の中に見えるような気がします。


対話の相手

だって、これを聞いたらマジルはどう思う?
彼は私に、友達になろうって言ってくれているのに!

……そうでした。それで、いいんでした。
私は、一人で、いるべきなんだから。

ヨイチはグランダールボの言葉を聞いて、マジルに全てを話すことを決意します。
しかし、グランダールボの言葉というのは、一体どこから生まれたものなのでしょうか。

なんだ、そうか。
私にしか、聴こえていなかったのか。

グランダールボをマジルに紹介した時、その声が自分にしか聞こえていなかったことをヨイチは悟ります。
(チェロの音が風と共に消え去り、グランダールボの大きな影も溶けるように消えていく瞬間の苦しさと虚しさのような感覚が忘れられません。)

グランダールボの言葉が彼の妄想であった、などという言葉を軽々しく使いたくはありませんが、少なくともこの夜の会話においては、グランダールボとの対話は彼の内側で起きていた葛藤のようにも感じられます。

話し相手のいない森の中で、グランダールボは彼の父親として、ヨイチと対話をする相手だったのだと思います。
だからこそ、森で一人で生きるというヨイチの決断は、よりゆるぎないものになってしまったのかもしません。


[参考文献]
牧野和春『巨樹の民俗学』恒文社、1986年
小笠原隆三『日本の巨樹・老樹』西日本法規出版、1997年


【うるう日記】2020.2.19 横浜公演1日目

当時はコロナの流行がかなり迫ってきていて、ちょうど横浜の船が…というニュースが流れ始めていて、かなり緊迫感がありました。それでもKKWのメッセージでは花粉症の季節です、と少しぼかしながらマスクの着用を促していて、その気遣いがありがたかった。
KAATはおそらく2020年の『うるう』の中でもかなり大きな会場で、追加席の3階は当日券でも入れた覚えがあります。コロナの影響でチケットを手放す人も多く、必死で譲渡ツイートをリツイートしては一人でも多くの人にうるうを観てもらおうとしていました。
おかげで横浜公演のあいだ、まったく別の場所で知り合った方々が自分をきっかけにこの作品を観に来てくださって、とても嬉しかったです。

職場から横浜にぎりぎりの乗り継ぎをしてKAATへ向かった。
徳澤青弦さんのinstagram投稿が更新されていた。サムネイルに「うるう」の文字が見え、見るか見ないか迷ったが、深呼吸をして見た。
「うるうの音」の発表だった(当時は「うるうの音楽」だった)。電車の中でめちゃくちゃになるかと思った。
たどり着くなり袋をもらい、エスカレーターを登りながら「うるうの音楽」のチラシを確認。

追加席で取った3階最後列。KAATは響きが良い。全て美しい。

・フクロウおばけの場面で水を飲まなくなった。
・学校の背景映像ががかわいくなった。
・穴に落ちるチェロ、膝で受け、ドクダミをつける。
・畑が美しい。からすうりがチェロの音に揺れている。
・ともだちになろう、の言い方が苦しい。
・フクロウおばけの姿は上から見るとフクロウそのものだった。
・独白中の曲が一つなぎになっていた。


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