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どっちの言い分に寄り添うのがいいのか・・・

これは、どっちの言い分に寄り添うのがいいのか・・・
近年このことに迷うことが多い。

法で裁かれたりすることでない限りは、
どちらの言い分にもそれぞれの正当性や感情がある。

お金でも場所でも提供する側が提示する
条件やルールというものは、最大公約数的な決め方をしていたり
お金や場所を提供する側が、余裕をもってその業務なりに
あたれるように、提供側にある程度都合よくできているものが多い。
この時点で、利活用側のこともっと考えてーと
言いたくなるが、、、そこは一旦置いておく。

一方お金や場所を提供してもらう側の人たちは
この提供者から、ここうまく使って
いいこと、楽しいこと、クリエイティブなこと、やってよ
とかやっていいよと言われてそこでのプロジェクトをスタートさせる。
今回の前提としては、受発注の関係ではなくて、それぞれに役割があるということが前提。

もちろん、スタート前には、こんな予算で、こんな人で
こんなことしますという計画も出す。

だけど、それは、やっていく中でいろいろと変化してくる

お金や場所を提供する側は
そうなると、あれ、聞いていたことと違うなー
変更するなら説明してくれないと・・・
ということになる。
コミュニケーションベタは、ここで、そうじゃないとお金出せませんみたいな言い方をしてしまう・・・

お金や場を提供してもらっている方の立場が、弱い場合は、
すみません!説明します。で済むし。
受発注的に仕事していると
とにかく争うより、ことを先に進めましょう的な合理的な判断で
この手の説明を求めてくるのは、行政や教育機関ならよくあることだし、
ちょっと面倒だけど一つ一つ対応するか
で終わる。

だけど、お金や場を提供してもらう方もお金や場を提供する側と
同等くらいの人だったりするとプライド合戦になる。

これって説明するような変更になるんだー
なんだか、ガチガチだなぁ、なんだったら上から目線で言ってきてないか?
最初の計画通りやれってことか・・・よりよくしようとしているのにうるさいなとなる。

一連のことが片付いて、ことがやりやすくなるとは
思えないし・・・。

これって、自分は、親しいんだから、融通きかせてよ
みたいな特別扱いを求めている感じが見え隠れしてしまう。

こういうプライドがある人たちのコミュニケーションは
結果的には、現場で対応する人たちに、迷惑をかけることが多い。

自分も以前はこういう特別扱いに価値を見出していたけど、
なんだか今は、そう思えないのは、この迷惑というのが
なんだか、以前と違って、本当に文字通りに
現場が辛そうに見えることがあるからかもしれない。

以前は、現場の人たちのその迷惑みたいなことに対しても
それを求める人へのリスペクトみたいなことで乗り越えていた気がする。
現代社会には、リスペクトってあまりないのかもしれない。
そのことで心理的安全性が確保されるならいいけど、
そうもなってない気がして・・・

チームはリスペクトで作り上げることが大事なのだなと、
思う。




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