エホバの証人2世について

片親でも両親でも宗教2世として生活している、しておられた人たちがおられます。そこから離れたと言っても心が縛られてしまっている方も多くおられます。わたしも一旦離脱していたことがありますが、やはり精神的にどこか縛られていました。“今日という日をとにかく乗り切ろう”という気持ち自体どれほど大変か。

ある意味同程度、でも違う意味で尊敬していますが「バプテスマを受けた疑問皆無の現役」には注意しています。えぇわたしも現役ですが。何か口から出ていきそうなため息が出ます。今回は特にそのような2世エホバの証人についてです。

2世の長老兄弟で、本来の人格はもう完全に潰されているんだろうなという方もおられます。目が、常に食い物にできる相手を物色してぎらついておられます。

物心ついた時から十代後半にかけてわたしには、あの世界は異様でした。言ってることとやってることが違う人たちが理解できませんでした。聖書を全て他人に向け、自分の、あるいは組織の解釈から外れる人を批判する人々。組織に傲慢性を植え付けられ人を見下してるのにそれに蓋をし、表面上自己卑下して、自分は聖書を頑張って当てはめていると本気で思っている人々。話を聞いてもらって、自分が話を聞いてやってると本気で思っている人々。一旦離れるまであの世界は全て冗談だと思っていました。でも本気の風を装わねば生きていけません。この人たちが普通だと思い、自分自身は異常だと思っていたので、いつかこの人たちのようになれるかも知れないとも思っていました。

イエス•キリストは「実で判断しなさい」とおっしゃいました。自分の直感を信じていれば良かったと思います。しかし直感には証拠がありません。ボイスレコーダーなどを駆使するなどの対策も幼いので思いもよらず、わたしには確信が持てませんでした。親に言ったところで悪口を言うなと言われますし、事実であってもネガティブなことを言い続ける自分にも嫌気がさしていました。

なぜ出戻ったかは長くなりますので割愛させていただきます。

話は元に戻り、そんな狭い偽りが蔓延る監視の世界で2世信者は生きてきたのです。だからわたしが出戻っても歓迎されませんでした。「暖かく迎え入れましょう」というものみの塔の本文をコメントで読み上げ、できてるような気持ちになっておられる人々の集団です。陰険、陰湿な空気は変わっておらず、懐かしさすら感じました。もう人間に期待はしないと決めていたので鼻くそだと思っていましたが。

またもや話は逸れますが『ものみの塔』。もうこの文字すら見たくありません。予習で読んで朗読で読んでコメントで読んで最低毎週3回も読まされて、そこまでやられたら逆に洗脳解けます。更に復習で読んで、最後の祈りでまた復習する講演者もおられます。こっちは息も絶えだえです。それでおもろいとほんまに思ってるんか。

話が戻りますが彼ら2世が思う煌めくサタンの世で、わたしが泳ぎ回り自由を謳歌して戻ってきたように見える上、急に聖書の神様は教えられてきたような性格ではなかったとか、怖い神じゃないとか言い始めたらそりゃ心掻き乱されると今となっては理解できます。しかも開拓奉仕も補助開拓もする気もない、バプテスマでゴールじゃないスタートですと言われて「いや、ゴールだね」と笑っていたわたしが、なんだか愛されているように見えたようです。

彼らはわたしがいいとこ取りしてると思っていると思います。でなければ2世の長老が、夫婦で露骨に嫌がらせしてくることは無いと思います。苦労は彼らに言っていません。どこにいたって苦労はします。だからローマの聖句に創造物全ては共に苦痛を抱いているとあるのです。でも彼らには洞察力がなく思考停止なので言わないとわからないのです。でも言うと、陰口や噂の的になります。

「なりたくて(エホバの証人に)なったんでしょう。ならいいじゃないですか」とわたしが言った姉妹には申し訳なく思っています。まさに「なりたくてなったんじゃねぇ」と、でもそんなこと言えないとお顔に書いてありました。ならなければ生きて行けない環境、組織から出ればどうなるかを教えられて、結末に対する恐怖感。そういうものにがんじがらめにされ、出たくても出れない人が多くおられます。本当のことも言えません。言わせてもらえない世界です。ある方はバプテスマを受けたら洗脳はとりま完了だとおっしゃっています。確かにわたしもバプテスマを受けてから組織の批判はしづらかったと思います。今でも自由に、大っぴらに言うことはできません。

わたしは、その姉妹のお顔を見て憐れみを感じました。キリストかよ。

あ、思い出しました。わたしはズームが始まる前から神権宣教学校を辞めていました。学校を担当している2世の長老が全然こちらの話を聞いてくれず、学べたことも一回も無かったため、その長老にブチ切れて辞めました。長老は「○ヵ月したら(気が変わっていないか)こちらから声をかけます」と言われて、3年くらい何も言って来ませんでした。ちょうラッキーと思っていました。親に電話がその人から来たとき、急に思い出したらしく結構食い下がって来たらしいです。演壇で自分に酔っているヤツのツラを見るとほんまやべえと思い、ヤツは特に見ないように、聞かないようにしています。

そして更に思い出しました。1世信者のおばちゃんの話ですが、わたしが楽しく他の信者と話をしていたら急におばちゃん姉妹に体当たりで突き飛ばされ、話をしていた人に急におばちゃんがおすがりしているのをわたしはよろめきながら見ていたこともあります。話に割って入るんではなく、文字通り割って入って来よったなとドン引きしました。息子さん兄弟が、大変なのはわかるけれど一言「ごめん」が必要じゃないか。

色々あり、特に2世たちに嫌がらせされるのはもう嫌なので、彼らから距離を置くという意味でとんずらしました。愛で覆う?うん。永遠の命なんかいらないから、すぐに、彼らとの関わりを終わらせようとある時思いました。許せないものは許せません。それで良いでは無いですか。許した人が許される?そうなんだ、で終わらせました。

許そうとして、そこで自分の心を壊して先に進めなくなるより、許さず1秒先に進めるなら、それで良いと思います。許さない自分は嫌い?嫌いで何かこの世界が変わりますかね?これが今の等身大のわたしです。聖書の神も、自分の気持ちに蓋をしろとか、許すにしてもすぐ許せなんて言ってません。祭壇に犠牲を置いて思い出すことなく捧げて、時間が過ぎて行ってしまう人がほとんどだと思います。祭壇に犠牲を置いた状態で「ひゃっだぁ、俺、恨まれてたワそういえば」なんていう状況は実際あったのでしょうか。許せずどこかに終着したって構わないんじゃないでしょうか。構われたって誰が責任取ってくれるんですか。聖書の神は基本人間には1秒でも長く笑っていて欲しいだけなのです。自分の事は例え誤解され憎まれても忘れられても。

聖書には許す、許されるプロセスが書かれています。何でもかんでも許すように教えているのは組織であって聖書ではありません。なぜ組織がそう教えるか?許されなければ到底あの世代の解釈の数々を引っ張ってこれないでしょう。

預言の解釈を何回「はい」を「いいえ」、「いいえ」を「はい」にしてるんだよ。自分たちが間違っても謝る必要はない、言い換えれば神の導きに従っただけだから神が悪いということです。そして1925年の解釈が外れた後でしたか?組織は信者が悪いと言いました。焦りすぎた人がいる、でしたっけ?焦らせたのは組織だろ!ごめんなさい、25年かは調べ直す気が今はないので知りたければご自分でお願いします。聖書の中でそんなことを言っているのは偽物の預言者だけです。ガラテア1章9節に「皆さん​が​受け入れ​た​の​と​は​異なる​事​を​良い​知らせ​と​し​て​皆さん​に​伝え​て​いる​者​は,誰​で​あれ​とがめ​られる(呪われる)​べき​」とあります。「その​日​と​時刻​に​つい​て​は​だれ​も​知り​ませ​ん。天​の​み使い​たち​も​子​も[知ら​ず],ただ​父​だけ​が[知っ​て​おら​れ​ます。」これ以上でも以下でも無い。

思えば、人類は遠くまで来たものです。最初の神の人間に対する命令は1つでした。子を生んでうんぬんかんぬんの命令は、そうしたくなったらそうするだろう的テンションだったと思います。あの木の実を食べないでねなんていう最初の命令は、普段の生活では特に気にして自分に言い聞かせる必要もなく、忘れてる日もあったと思います。それを思うと組織ががんじがらめの規律で信者を縛るのは、イエス•キリストが糾弾されたパリサイ人たちや書士たちです。おまぃら聖書読んでいるのかよと思います。「目は見えているのに見えておらず•••」。ただただ洗脳が効いているかのチェックで、聖書(の自分たちの解釈)は羊に当てはめさせるもので自分たちには当てはまらない。

だからエホバの証人のおおまかな共通のキーワードは「罪悪感」です。エホバの証人から何か相談をされる時は、多くが罪悪感で苦しんで、というケースが多い。罪悪感からなんでも組織は動かそうとするので、とにかく罪悪感に気づいておられない人が相手であれば罪悪感から行動するのでは無く本当は自分がどう思っているか、本当の自分で愛されるということを伝えるようにしています。自分の望んだようには伝わらないですけど。少しずつですね。

だからわたしは神様が仲良くしなさいと言っている(と組織が教えている)人が相手であっても逃げて、結論神様の世界にわたしを必要としないと判断されても、今までのことを総合して判断してくださるはずです。なぜ必要とされないかもと思うかですか?相手は可哀想な、優しくする理由がいっぱいある人が多いからです。でもだいたい軽く見積もって100vs1くらい。優しくしてほしい人が100。わたしは長老でもないし、そんな割合で一方通行に優しくして心が壊れかけました。長老に優しくして、聖書からの話をして、なんだこれとよく思っていました。

神はわたしに憐れみを掛けられるところはかけてくださるでしょう。でなければ「エホバ、エホバ、憐れみ深く•••」なんて聖書に書かないでしょう。俺、お前がしてくれたこと、クソ意地にかけてでも忘れねぇとわざわざ宣言される神です。わたしを殺すにしても、ある程度ご考慮いただけるかもしれない。いただけなくても、それがなんなんだろうと思います。殺されることには変わりないのに、その時にいくら何を言ったってわたしは何も変わらないと思います。それがわたしの限界です。仕方がないことばかりです。

彼ら2世から離れてもわたしは彼らにある意味敬意を持っています。全力で逃げる相手ですがわたしは彼らのようにはどうしても生きられなかったので。

ただそこまで苦労しても実質統治体を崇拝している背教者という現実の彼らの選択には言葉がありません。ここまで調べられる環境が整っている現代での無知は罪、知ろうとしないことは罪だと心から思います。過去の自分も含めてな。

でもエホバの証人の言い分としては組織が言う背教者の情報を取り入れてはなりませんと言われているし、いくら真実を叫んでもフェイクニュースとか、いわれのない迫害と言われます。数人の長老対自分1人で長老たちに威圧されながら、組織に忠実ですかと聞かれて、聖書が「組織に」忠実であるよう命令しているはっきりした証拠を見せてくださいと言っても排斥されるでしょう。

エホバが耕作者でキリストは幹でわたしたちは枝にイエスは例えておられます。幹と枝の間に何か、統治体があるとは言われませんでした。(byエリック・ウィルソン氏)

相手は話の通じない過激な集団と同じでした。聖書は誰かに説明してもらわなくては理解できない本ではないそうですな。文書として手元にない状態、そして情緒不安定とか、雨に打たれてなどの中で聖書の朗読を聞くという状況で、解説が必要なのだと思います。