ものみの塔2017年

の10月号を処分していて、17ページからアリマタヤのヨセフという記事がありました。

わたしはエホ証として頑張っていた時も、アリマタヤのヨセフに関してはエホバの証人の見方には懐疑的でした。

彼も神の国を待ち望んでいたということは最低でもイエス・キリストが好きだったと思うんですね。一生一緒にいてくれやの世界ですから。

議員さんだったししがらみもあって、あまり目立って弟子です!みたいな活動はしてこなかったようですが、思い切ってピラトさんのところにご遺体をくださいと言いに行ったくらいですから、イエスのことをかなり好きだったと思います。気持ちは直属の弟子たちと同じくらいの大きさだったと思います。

イエスの直属の弟子たちが放心してる中、彼だけシャキシャキしてたワケではないと思うんですね。なんか信仰の表明ガーとか、結びつきを告白ガーとか、罪悪感とか、エホバの証人が考えるようなたいそうなことは考えていなかったと思います。

本当に大好きな人がこの世界からたった今消えた、その状態でピラトさんの前に出た心境というのは、わたしが思うにですよ。何も聖書に書いてませんよ。全て妄想です。

彼はもう敗れ被れだったんじゃないかと思うんですね。

「っあ〜もうだめもう正気を保てない、いいやいいや、もういいや、何もかもどーでもええや、何もかももう虚しい、俺も処刑されるかもな、でもいいや〜あはは〜あーとりあえず埋葬」

みたいにどうしても読めたんですね。

悲しい時なんて気が違って当たり前やないですか。

わたしは自分でこう思ったので、これにどう見倣うっつぅの?と真剣に思い悩んだものでした。

ま、見倣えるとしたら恐れず人を好きになる事ですか?失う事を恐れて好きになるのが怖いので。でも人を好きになると、こういう気持ちを知らなかったよりやっぱ知れて良かったと思いますもんね。失っても。