サイコっぽい内容かもしれません

今まで色んな勉強をしてきて、エホ証に限らず宗教2世の家庭で行われていた、行われてきた、行われている、あらゆる虐待がしっかり表に出ていない、でもその1つ1つが1人の人間の人生のほとんどの部分に影響しているんだなということを思います。

本人も一つ一つの事例でされたことを検証する暇もないし、はっきり虐待とは言えないと思っていても、あの出来事は大きかったと思うことがわたしもあります。チリツモであることも多いですし、小さなことでも大きなことでも、どこに、何にカテゴライズして良いのか、したとしても、なんだか違うぞとあとから思ったり。結局自分の経験は、この宇宙でここにしかない。それが神に反逆した天使が欲しがった世界です。何とか、そういう存在の人間を手に入れたかったんだなと思います。

そして虐待する人たちは、話が通じない人が多いです。人間の話が通じない。文字にすると絶望感があります。一応人間の皮をまとっているので、人間の法律が適用されます。わたしについては、そこは納得できてこなかったし納得できることはないと思います。

親の片割れが人格障害と自閉症と、さまざまな精神病を持っていると思いますが(診断は受けに行かせていません。診断が下ったとしてもあまり現実は変わらないし、その診断を盾に意味不明のことを言って支配しようとしたり被害者ヅラしてナルシストが加速し迷惑が増大するに100万ペリカなので。というかわたしが診断を先に受けたい。)、ぶっちゃけあの人はゴキブリ以下だと思います。一回も一ミリも努力したことがない。嘘をついてでも構ってほしいだけ。お金はどこかから湧いて来ると思っている。子供は老後の保障。他人を食う人間に媚びて、自分のためにと思ってくれる人を利用し責任転嫁する。家族に興味はない。自分の欲のためだけの結婚。妄想の世界の自分が現実だと思っている。ひたすら何かに依存する。性に依存、テレビに依存、スマホに依存、お金に依存、福祉士たちや病院の人に依存、etc。

ゴキブリはどんな殺し方をしてもいいのに、なぜ人間の皮をまとっているだけでゴキブリ以下の存在に法律を適用されるのか。わたしには本当に本当に理解できません。自分で言ってて怖いけど。

犯罪者は犯罪を犯して初めて犯罪者のネームプレートをつけるのでは無いと、わたしの親を見ていてもわたしを客観視しても思います。思考が大事なんです。それを学べた聖書には、ひいては聖書に出会わせてくれたエホ証にはその部分は感謝しています。

「殺人をしてはならない。」

聖書にそう書いていてくれたことにわたしほど感謝している日本人が何人いるのかなぁ。人を消去どうしてもしなくては誰かを守れなくて、実際理性的にして、刑務所に入って、出てきて、苦労して、やっぱりこれで良かったと思っている人も現実にはいます。

わたしがやる時は裸の上に百均のカッパを着て、やろうと真面目に考えていました。

でもエホ証になって、返り血を浴びる選択肢は無くなったので、バプテスマを受けた日にめちゃくちゃ安堵しました。そんなことをしたら、神のお名前に汚名をわたしが帰すことになりますからね。

こういう人間なので、エホ証を辞めてもやっぱりクリスチャンでいることは大事だと思います。わたしはね。

だからどんな虐待をされても、人間らしく生きている人、葛藤している人、悲しんでいる人、相手は殺せないから自分が死のうと思う人、なんとか対峙している人、人間として生きるため縁を切った人、裁判をしている人、ものすごいと思います。相手が悪いけど相手に敬意を持ってるじゃないですか。相手を消し去らず、なんとかその世界で生きようとしている人。そういう人を見るとメーターが振り切れます。感動のメーター。

相手が変わらないから自分が変わる。相手を人間として扱う。いや、わたしもその親を人間として扱っています。自分が変わるようにしています。人間らしく生きようと思っています。でも何かが違う。心のどこかが無表情で、感情が死んでいる。わたしを作り出した親なのにわたしを恐れる顔を見ても、恐れる体力があるならもっと生産的なことをしてくれと思うので、もうその部分は変わらないだろうと思います。

何が言いたいのか。サイコ的でも楽ではないということだろうと思います。本当はこんな自分では無かったのに、確かに気違いじみた家庭で正常に苦しんできた時期もあったのに、自分でそういう部分の自分を殺して、過去に置いてきてしまいました。だから感情のある人は、つらいこともあると思いますが、大事にそれを抱えて置き去りにしないであげてほしいです。