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下書きなし

わたしはチキン、いつでも常にチキンで、鶏肉も大好きです。
ごめんなさい最初から話が脱線しています。
チキンなので基本、こういう投稿する時は下書きをします。
でもこれは下書きしていません。
だからちょっと言葉足らずかもしれません。

親の聖書と一緒に置いてあった最近組織から出た「愛を込めて弟子を育てる」という本か冊子か何かわからないものが見えて今初めて見ました。ペラっと見て終わりました。

エホバの証人は100年以上前から基本的には情報を焼き直ししかしていないんですよね。しかもイエスのようになれとかフィリポのようにとかパウロのようにとか。わたしはイエスでもフィリポでもパウロでも無いんすけど。

もう表題からして突っ込みどころ満載ですわ。「愛を込めて」って。まず信者に愛し方から教えてやれよと思います。統治体からして愛し方知らないもんなぁ。人間の気持ちすら知らないんじゃ無いかなぁ。わたしのことは棚に上げています。

エホバの証人の愛って愛ではないと思います。そうすり替えているだけ。どうしようもない温かい気持ちとは次元が違う。だから物のやり取りになってしまう。愛ってスピリチュアルじゃないですか。連続しているから上がったり下がったりするし。お互い傷つく前提があるし。目に見えないけど、それで大きなことが動く。良いことも悪いことも起きて、それを共有していこうってことなので綺麗事では済まされないですよ。でもそれで他者の気持ちを理解できるんじゃ無いかと思います。

エホバの証人は、無い物を込めようとするからおかしくなるんじゃ無いかね。別に無かったら無いで良いやんって思いますけどね。元々愛が持てない人もいるし。わたしの親の片方の話ですわ。あの人は生まれてくるべきでは無かった。わたしもですよ、わたしも生まれてくるべきでは無かった。でもああいう人たちってそれを自分でわかっていないじゃないですか。そこが問題だと思います。わたしはああはなりたく無いので、自分の現実をしっかり見据えていたいです。

エホバの証人って人の幸せ願えない、欠陥人間が多いじゃないですか。それが誰かを助けるなんてどだい無理があるんですよ。幸せを願えないなら願えないで「あぁわたしは人の幸せ願えない」と向き合えば良いんですが。周りの人に「願えなくてごめんね。変われなくてごめんね。」と言うだけで違うんですけどね。彼らは一時が万事やなぁと思います。

エホバの証人は罪悪感くすぐるのがうまいですよね。できていない気持ちにさせることばかりです。できていることまでできていないような言い方をされると、言っている人が正しいように思い込まされてしまう人も多いんじゃ無いでしょうか。ある意味、自責の念というのは。なんと申しましょうか。「責めている自分はまだ大丈夫」みたいになる人もいます。責めていないと傲慢になってしまうと思わされていると思います。でもそれってスタートが恐怖ですね。スタートが恐怖だと、結論まで上手くいかないことが多い気がします。

あと「弟子を育てる」って。傲慢にも程がある。聖書を学んできた人も、これから聖書を読みたいなという人も、お互い、あなたが今まで学んできたことを教えていただいて、わたしが学んできたことも聞いてくださいって姿勢が人間関係では大事だと思います。なんか結局口では何を言っていても教えてやるぞという姿勢がエホバの証人だと思います。

教えてやって、なんでもかんでもスカートやヒゲまで教えてやって。独立心に罪悪感を抱かせて、依存させて。やっぱり行動では、統治体は自分たちを神だと思っています。

エホバの証人は自己卑下しながら傲慢な人が多い。混乱の世界。

一人でも多くのエホバの証人に気づいて欲しいです。