「過分のご親切」

この言葉が貰った聖書では「恵み」になっていました。

過分のご親切という表現は、エホバの証人は好きですね。

過分と言われると「自分には過ぎた分」、「自分は受けるに値しないのにいつも過ぎた親切を受けている(そうは思えないと思っている人も、それを言えない人、そう思い込もうと頑張っている人もたくさんいます)」、「過ぎた分を貰っているのに『喜べ』という命令(ぶっちゃけ命令ではないと思う。あっちの地域の表現だと思う。)に心から従えない自分が悪いんだ」、「過ぎた親切をされているはずなのに、見落としている自分が悪いんだ」、と「過分のご親切」というたび、無意識に刷り込むことができると思います。

それを教えてくれた個々に関わってきたエホバの証人、組織にも縛られると思います。

「あなたのためを思っています、あなたのために言っています、神に愛されていることが分かるでしょ?自己肯定感上がるでしょ?」と言われれば、それを突っぱねたら「自分がおかしいんじゃないか」と思わされると思います。「だって良いことを言われているのに。なんだろうこのモヤモヤ感は。」

「恵み」と言われると「良い人にも悪い人にも雨を降らせる」という聖句を思い出します。受けるか受けないかは個人の自由だというニュアンスをわたしは思い出します。雨が降って罪悪感を感じる人なんていません。「わたしが悪いから雲を呼び寄せてしまって雨が降ったんだ。」「わたしが良い人だから雨が降ったんだ。」という人がいたら。

「どしたん話聞こか」と言うと思います。心配。

エホバの証人の組織に一生懸命「過分のご親切」と刷り込もうとされているなと今よりも洗脳されていた時にも思っていました。それを聖書で読まされたりコメントで言わされたりして、なんでこんなしつこいんだろうと不思議に思っていました。でも「過分のご親切をエホバからあなたは受けているんですよ」的な教育をされるたび「神がそうしたくてしてるんだから、それでいんじゃね?神の幸せ願ってる。」と思い、それについての罪悪感は微塵も無かったし、今も無いです。

神は心身共にパワーが無限です。だから「もっと親切してくれよ。足んねぇんだよ。」と悪態をよくついていました。

神にお祈りするとき、敬意を持って敬語で、みたいに教わりますがあれも嘘やと思います。わたしは神に敬語を使うとゾワゾワしたので無理ですね。それで怒るような神であればとっくに怒ってはると思います。
なんで「ダディ」言いながら敬語なん。わたしは、意味わからんと思っていました。だから昔は壁や地球を殴ったり蹴ったりしながら「クソテメー!」と神にぶちギレたりもしました。そうやったって結局何も変わらないからです。でもやらなくては精神が壊れると思った時はやりました。

神が感情的に怒ることは絶対に無いと思います。「怒ってる」と言うことはあっても。怒っていても言わなきゃ伝わらないほど、いつもニコニコなんだと思います。感情的に怒るんであれば、古代イスラエル王国時代も、イエス・キリストの時代のユダヤ人にも、1世紀のクリスチャンにも怒って、今の統治体はもっと早くに消えているでしょうし、日本の虐待者も「自分達は神聖な奉仕を捧げている」と本気で思っている現状は無いと思います。

「過分のご親切」なんて神は言ってほしくなかったかもしれません。最初の人間たちにも多分「過分の」親切ではなく普通の親切しかされてないとわたしは思います。自分がほんとにしたくてした親切で罪悪感を感じられたらそっちの方がわたしは傷つくね。