テモテ第二1章12節、16〜18節

12「わたしは、自分の信じてきた方をよく知っており、その方は、わたしのお任せしたものを〜守ってくださることができると確信しているからです。」

16「オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。・・・たびたびわたしを元気づけてくれ、またわたしが鎖に繋がれていることを恥とも思わず、」

17「・・・、熱心にわたしを探して見つけ出してくれたのです。」

18「ーーかの日に、主があわれみを彼に示してくださいますようにーー・・・。」

これはエホバの証人ではなく、近所のクリスチャンに貰った聖書です。

初めてここを読んで、パウロがオネシフォロ(オネシポロ)がやってくれたことに対し、お返しできないと思っているんだと思いました。

してくれたことにほんとに感謝してる、気持ちは本物だと伝わってきます。でもパウロには先に進む必要があります。感謝を、鎖のそばに置いて前に進む必要があり、感謝を充分に伝えられずに、彼の主にお任せするものの中に入ってるような気がしました。

だから、うまくオネシフォロに伝えられず、今生の別れになるかもしれないから、手紙に残して信頼できるテモテに、できたら伝えて欲しかったんじゃないかと思います。

パウロは、きっと泣いているような気がしました。でも涙もここに置いて行って。

彼には明確な責任がありました。

わたしには彼のように明確な責任がありません。そのことにめちゃくちゃ安堵しました。パウロには申し訳ないが彼ほどわたしはできていない。わたしはキリストと話したこともないし、パウロやテモテのように直接の、否定できない責任が全くないので自分のしたいことをできます。

テモテ第二1章4節の、「あなた(テモテ)の涙」とあり「会って喜びに満たされたい」とあるので心は繋がっていても、テモテは、パウロと拠点を離して別々の場所でそれぞれの戦いをしていくことに泣いたんじゃないかと思い、こんなんやだなと思いました。だって手紙が無事テモテに届いて会えたってもう、昔のようにずっと一緒にいられない、また自分の戦闘場所に戻っていくのを分かっていて、でも会ってる間は頑張って笑顔でいるねとパウロが言っている。こんなせつねぇのは嫌だ。絶対嫌だ。こんなことでなんで悲しくならなきゃならならないんだ。

でも今でも、この人もこの人も、聖書の神にこき使われていそうだと思う人がいます。その人たちに頑張っていただいて、わたしは自分の望む場所で望む人たちと生活できることに感謝し、したいこと、自分の責任に集中させていただこうと思いました。応援するけどね。なんか悲しいね。