戦争への参加

戦争への参加は、全てエホバの証人の解釈を取っ払った状態で「この世のものではない」「王にさせられようとして山に退かれた」「剣を鞘に収めなさい。剣を取る者は剣によって滅びます」(これらの聖句が中立の問題に出すべき聖句なのかはわかりません。)などの言葉の数々を読んで、本当のところ自分はどう思うかだと思います。難しいですが真っサラな気持ちで読んで。

多分エリック・ウィルソン兄弟は「戦争への参加は聖書的に見ても言語道断」と言われるかもしれません。でも多分強制はされない、自分で決めなさいと言われるでしょう。

「戦いを学ばない」ですか?「人と比べてではなく」自分が学んでないと確信できたらそれで良いんじゃ無いですか。「[神]が​多く​の​民​の​間​で​​裁き​を​行ない,遠く​離れ​た​強大​な​国々​に​関し​て​事​を​正さ​れる時に​剣​を​すき​の​刃​に、​槍​を​刈り込み​ばさみに打ち変えなければならない末の日」まで色々考えたら良いんじゃ無いですか。まず「かみ合っ​たり​食い合っ​たり」会衆内で起きている現状を打開してから「戦いを学ばない」という話が初めてできませんか。この話の持って行き方は彼らがよくやるガスライティングですかね。

わたし個人としては第一次世界大戦のクリスチャンが、空に向かって発砲していたというのを読んで、その人はそれで良かったんじゃ無いかと思います。人を撃つというのは、殺人はやはりしたくないです。元兵士のPTSDを見ると。誰も戦争なんて嫌です。訓練中も葛藤すると思います。耐えられるかな。

それほどまでに相手が大きいので、自分だけの状況で、瞬時に判断していく必要があると思います。どでかい失敗をしても、仕方がないことが多い。精神が崩れても、もう少し時間が経つのを待ってみようという考えも忘れないでいたいと思います。

わたしは誰かを撃つ人もわたしを撃つ人もわたしの家族、ペットを撃つ人も、その人の家族を守るためにとか、食べていくためとかのさまざまな理由があって撃って来ているということは忘れないように、怒りや復讐心とは別次元で理解していられたらと思います。

何年も統治体は代替奉仕でしたっけ?それはダメだと言ってきたそうですね。でも途中で考えを変えた。それまで忠実でありたいために投獄されつらい思いをしてきた男性が親に尋ねたといいます。自分たちが耐えて来たことの意味を。意味はあったのかと。わたしが親なら答えることに恐怖で顔がひきつり、隠れて泣くでしょう。でも組織に居たければ組織の悪口は言えませんし組織に意見を言う人は排斥なので言えません。試しに、聖書の本文に統治体と書かれている場所を見せてくださいと長老に言ってみられると良いと思います。良くないか。

輸血の分画の話が出た時も組織の上の人かその家族がやっちゃって、辻褄合わせに今のようになったという話も証拠は無いですが、あります。サンドイッチを食べてはダメだけれど、バラしてレタスとチーズとハムとパン、別々なら、どれかとどれかだけなら食べて良いよという話をされたら「こいつは何を言っているんだ」と思いませんか。

代替奉仕の変更も、行き当たりばったりの様な匂いがプンプンします。羊のことなんか何も考えていない。自分たちの洗脳にしっかりかかっているか確認できてラッキーくらいにしか思っていないでしょう。でなければせめて精神的なフォローをすると思いますし預言の外れや虐待も含め1回くらい謝るんじゃないですか。

弟子に2振りの剣を持たせたのは本当に教訓を与えるつもりでイエスは持たせたのでしょうか。わたしには分かりません。ペテロも、自分が耳を切り落とした剣を見て、後から何を考えたでしょうか。イエスが癒やされたのと言葉を見て聞いて、剣は手から落としてまったのでしょうか。しかし手の感触は残ったはずです。

多面的に強さというのは人それぞれで、軍服を着るのすら無理という人もおられるでしょうし、衛生班なら従軍しますという人もおられるかも知れません。それを組織が一律に決めてしまうのが問題だと思います。

生きていれば帰ってきて、やっぱり考えが甘かったとか間違っていたと思ったら謙遜に神とキリストに謝って次からまた試行錯誤したら良いと思います。

自分の人生に責任を持つ、現実の前で理想論を述べていても何も変わらない。

組織の規律にがんじがらめにされ、自分では考えることを放棄し、その狭苦しい世界の中から他人を批判し忌避しながら、どうして神と人に受け入れられると、愛されると思っていられる人が多い。それが日本では今まではできてきましたが、これからはわかりません。

明石順三兄弟がなぜ排斥されたのか調べました。年鑑に出ていた兄弟の話は組織にとって都合の良い部分しか書かれいないとわたしは思います。