安楽な消え方は、プロセスが安楽ではないと思います。

安楽死推進委員会が有れば委員長になりたいくらい熱烈に日本でも認可されればなぁという思いを持っています。自死はしませんが合法になったら間違いなく受け入れます。眠るように、という願いが叶いますから。

両親を見送ってから、わたしが生きている間に可能になれば嬉しいです。戦争に行ってという形は嫌ですね。無事死ねたら良いですが、ピエール・ルメートルでしたか、の『天国でまた会おう』を読むと心底嫌です。内容を思い出すだけで何の涙かわかりませんが泣けます。あれが現実だと思います。

安楽死に行き着くためにはきっと「アイドルになるためにまずアイドルになる方法、ボイトレを学ぶ、事務所を探す」などのようなプロセスが必要になるでしょうし葛藤もあると思います。死ぬため頑張る、みたいな。

家屋や土地の処分、親戚への根回しや対応、財産整理も必要でしょう。

それでもやる価値はあると思います。生まれてしまえば生きなくてはいけないのは不条理だと思います。

生きるって意味無いです。聖書の神は「幸福の神」であり、「影による変化もない」と宣言されています。だからわたしが居ても居なくても「幸福の神」なのですよ。わたしが安楽死すれば泣かれるでしょう。泣いて落ち込んで居ても、周りの大切な存在たちのため「幸福」でい続ける精神力をお持ちです。神を泣かせるから、それだけのために生きるなんてわたしは我慢できません。

人生は目標がないと「やり過ごす」人生になり、死ぬ時後悔するそうです。「あれをしたかった、あれを見たかった」と言うように。
後悔したらいいと思います。

わたしは自分自身の、伸びてくる爪や髪の毛、代謝する皮膚、内臓、汚物、涙、鼻水、全てを持て余しています。

人間の体がプラスチックであれば。もう少し生きやすいでしょうね。しかし持って生まれたものには感謝しています。

ただ、それとこれとは話は別です。

高校生の頃あたり、お金ができた経緯を勉強しました。全てというくらい忘れてしまいましたし、今学ぶ気力はありません。しかしお金というシステムを作った人々は万死に値すると考えた記憶はあります。

お金さえ無ければ亡くなられた時死ななくても良い人々も多くおられたでしょう。

正直なところお金が大好きですが、本当に大嫌いです。お金がなければこんなに生きにくくはなかっただろうと思います。

わたしが神ならわたしの様な人間は、ゆっくり休ませてあげると思います。こんな風に言って、腹を立てて寝かしつけてくれる神であればいくらでも言うでしょう。聖書の神はニヤついているだけだと思います。いつだってほとんどニヤついているように読めます。

神様というのは理性的無感情な存在ではなく、笑っていたいし優しくしたいなど、性格が偏っておられると思います。それでも公正、公平になれる。ただそこには憐れみという9つの霊の実を超越、凌駕、別格している神の特質があります。憐れみたい。そしてきっと大人しい静かな方だと思います。図書館の隅で読書している人のような感じがします。でも聖書では、自由意志を尊重すると言いながらどんな生き物でも1秒でも生きててほしいと思っておられる圧倒的なわがままの強さが前面に出ていると思います。

聖書の神を学んできて愛とは「しょうがない」とどれほど相手に言えるかだと思ってきました。もうあんまり「しょうがない」と言いたくないです。