組織を滅ぼす「権力中毒(The Intoxication of Power)」が政権に蔓延していることについて

香山リカ

たしか小学校低学年の頃、いまは亡くなった父親が、テレビで国会中継を見ながらこんなことを教えてくれた。
「政治家という人たちはね、議長に『なになに君』って自分の名前が呼ばれて議場に響きわたると、"ああ、いい名前だ”とうっとりするっていうんだ。もしかするとそうやって議場で名前が読み上げられたいから、政治家になるのかもしれないね。」
父はそのことを、自民党の大物政治家が実際に語ったエピソードとして教えてくれたのだが、残念ながらその政治家の名前までは覚えてない。ただ、子どもごころに「変わった人もいるんだな」と驚いたことはよく覚えている。私は引っ込み思案というわけではなかったが、学校でも先生に名前を呼ばれるのは恥ずかしい、みんなに注目なんかされたくない、と思っていたからだ。

私の場合、実はそれはいまもうっすらと続いており、たまたま立ち寄った書店で自分の著作を見つけてしまったりすると、落ち着かなくなって足早に通りすぎたくなる。いまだから言うが、せっかく平積みになっていた本を、急いで書棚に戻したり上に他の著者の本を重ねて置いたりしたこともある(店員さん、ごめんなさい)。目立ちたくないなら本など出さなければよいのだが、「本を書く」ことじたいはそれほどきらいではない。それが売られて、自分の名前が知らないところに広まるのが、なんとも言えずきまり悪い感じがするのだ。 それは私が謙虚だとかつつしみ深いということではなく、そういう性格だからなのだろう。

そんな私からすると、いま世の中でその名が取りざたされている黒川検事総長などは、いったいどういう気持ちなのだろうと考えると、まったくの他人なのにドキドキしてくることがあった。テレビをつけても新聞を開いても、自分の名前が耳に目に飛び込んでくる。しかも、ノーベル賞受賞とかうれしい話題ではなく、どちらかといえば、いやあきらかに疑惑の目が向けられ、批判、非難の対象になっているのである。しかも、先週は自分の定年延長から端を発した検察庁法案改正に対して、なんと1千万近くの抗議ツイートが発信された(私も何度かツイートしたが)。

私だったらいたたまれず、押し入れの中にでもこもって、「あー」と言いながら指で耳をふさいでしまうかもしれない。「安倍政権の守護神」などと呼ばれ、数々の政権に不利な事件を不起訴にしてきたことは到底、看過できるものではないが、ひとりの人間としては「ずいぶんつらいだろうな」と、ちょっとだけ同情の気持ちも持っていた。

だから、『週刊文春』の「5月1日に新聞記者宅で賭けマージャン」というスクープ記事には、心底驚いた。黒川氏は押し入れで耳をふさいでいたわけではなく、堂々と外出してマージャンに興じ、お金まで手に入れていたというのだ。記事によるとこのマージャンは記者らによる接待的な目的でしばしば行われ、この日も黒川氏は記者の所属する新聞社のハイヤーで帰宅したのだそうだ。

東京高裁の検事長という地位、そして安倍政権とも近い位置におり、政府が自分のために特例で定年を延長し、それを閣議決定してくれる。しかも、検事総長の座も見えてきており、法改正によりその座に長くいられるかもしれない…。黒川氏自身はそんな状況をどう考えていたのだろう。「おそれ多い、責任も重大だ」「私のために法律まで変える、だなんてそんな無理はしないで」といったためらいの気持ちなどまったくなく、自分がそこまでの権力を持つ身であることや、最高権力機関である内閣とも密接な関係にあることを、むしろ喜ばしく誇らしく思っていたのではないか。だからこそ、東京でも緊急事態宣言が発令されていたこの時期に、接待賭けマージャンなどというおよそ考えられないような場を設定されても、何の疑問も抱かずに気軽に出かけたのではないだろうか。

とても俗な言い方をすれば、「オレほどの人間なんだから、あらゆることに特例が適用されて当然だ」という感覚が骨の髄まで染みわたっているのだ。別の言い方をすれば、権力の中枢に近いところにいることが引き起こす酩酊感で、客観的にまわりが見えなくなっているということだ。

議場で自分の名前が呼ばれるとうっとりする、という政治家にも似たこの感覚。

これはビジネス研究などの場で、The intoxication of power、つまりは「権力中毒」と呼ばれて研究の対象となってきた。

2013年、ケンブリッジ大学はこの「権力中毒」の危険性を説き、そこからの離脱を促すためのセミナーを、経営者やビジネスパーソン向けに開催した。

このセミナーの主催者は、「権力を手にして権力中毒に陥った経営者は唯我独尊的な傲慢に陥り、結果的にそれが経営する企業の破綻につながる」と警鐘を鳴らす。この「権力中毒が生む傲慢」を、イギリスの元国務大臣で医師でもあるデビッド・オーウェン氏は「傲慢症候群(Hybris syndrome)」と名づけて本に書いた。この問題については、私は2015年にもこのときは作家の百田尚樹氏を例にして取り上げたことがあった(いまから5年も前のことなのか!世の中、あれからまったく変わっていない…どころかますます権力中毒や傲慢症候群に拍車がかかった人が増えていることに悲しくなる)。

ケンブリッジ大のセミナーを主催したビジネススクールのクリストファー・ロッホ教授は経営者らに呼びかける。

「傲慢であること、それじたいは病気というわけではありませんよ。健康な人では、ある程度の傲慢さは自信を生み、ストレスを軽減するのに役立ちますが、一部の人ではそれは『自分が巨人であり、他の人が手先である』という認識を作り出すのです。そして、これは目標の設定や意思決定の感覚を歪めてしまいます。だからこそ、権力中毒が生む傲慢は、その経営者が持つ企業にとっての大きなリスクとなるのです。」

自分の名前が国会の議場で呼ばれると、その響きにうっとりするという政治家も、本来、この「権力中毒」の危険因子を持っている人たちと言えるだろう。しかし、自分でそれをある程度、自覚し、うまくコントロールすることで、そこからどんどん傲慢になって意思決定を歪めることは避けられる。そして、適切な野心―というものがあるかどうかもわからないが―を育み、最終的には総理大臣の座を目指して邁進する、ということになるだろう。もしそれがその人の「権力中毒」の性質から生じた野心に基づいたものだとしても、結果的に行っている政治が世のため人のためになるのであれば、多くの人は「総理大臣になりたいだなんてただの欲深じゃないか」などとは言わないはずだ。

しかし、ここ数年、権力の中枢の周辺で誰から見てもおかしな便宜を図ってもらい利益を得てきたような人たちは、「オレは総理とも近しい仲だ」という自信からどんどん「悪性の権力中毒」となって行き、ついには「やってよいことと悪いこと」の区別もつかなくなっているようだ。いや、総理大臣その人も、最も強烈な「悪性の権力中毒」にすっかり浸りきっているとは言えないだろうか…。

繰り返すが、権力中毒にリーダーが陥った組織は、早晩、破綻する。それは歴史や数々の企業破綻のケースから明らかなのだ。

さて、自らの定年をめぐる問題を含めた検察庁法案が国を揺るがす大問題となっている中、また新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言で多くの人たちが不自由な自粛生活を強いられている中、接待賭けマージャンに出かけ、無防備にも週刊誌に写真を撮られるような人が高裁の検事長を務める組織」はどうなのだろう。またその法案を強硬にも成立させようとし、世論の強い反対で渋々、見送ることを決定した人が総理大臣を務める組織はどうなのだろう。

その組織の名前は、ふたつとも同じだ。それを「日本」という。

繰り返す。「権力中毒」に陥っている人たリーダーとする組織は、そのうち必ず破綻する。

自らが「権力中毒」ことを自覚して、そこから回復するためにどんな努力も惜しまないか。さもなくば、組織の破綻を防ぐために、「権力中毒」の人には権力の中枢から去ってもらうか。私は、今回の黒川氏の一件で、「権力中毒」はもはやちょっとやそっとでは回復不能のところまで、政権やその周囲に蔓延してしてしまっていることを改めて知った。

だとすれば、答えはひとつ。権力中毒の方たちには、とりあえず権力の座から去っていただくしかない。それはもう、明らかなのではないだろうか。