反日、公金、ヘイト――学術会議、あいちトリエンナーレ、知事リコール運動

日本の国立アカデミーであり、人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の内外に対する代表機関である日本学術会議。全国87万人といわれる学者、研究者を代表する会員は210人です。

いま、その日本学術会議が推薦した新会員候補者のうち、6人の学者を菅義偉首相が「任命拒否」したことが大きな話題となっています。政権側はその理由を明らかにしていませんが、6人の候補学者は過去に政府の方針に対して批判的な意見を述べたことが指摘されています。報復、見せしめともいえるこの露骨な措置に、学者のみならず多くの市民から「学問の自由を侵す暴挙」との声が上がり、3日に首相官邸前で急遽、開かれた抗議集会には、約300人が集まりました。

ネットには「あまりにも異様な学問への政治介入に驚愕した」という声もありますが、実は私自身はあまり驚きませんでした。これまで学問、文化、芸術の領域には政治が極力、介入しない、というある種の不文律があったはずですが、ここ数年、それが簡単に破られる事例が相次いでいたからです。

そこで共通しているキーワードは、「反日」「公金」そして「ヘイト」です。それについて今回はちょっと書いてみたいと思います。

まず、2017年12月13日には産経新聞が「『徴用工』に注がれる科研費」と題して公的な研究資金である科学研究費助成事業のあり方に疑問を投げかけました。次いで2018年4月26日発売の『週刊新潮』では、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が「科研費の闇 税金は誰に流れたか」という文章を寄稿。そこで自民党衆議院議員・杉田水脈氏の調査の成果を引きながら、当時の安倍政権に批判的であった山口二郎・法政大学教授に日本学術振興会や文部科学省から研究資金が提供され続けていることを取り上げました。

山口教授は東京新聞の連載で「政権に批判的な学者の言論を威圧、抑圧することは学問の自由の否定である」などと反論したのですが、杉田氏はツイッターで「公金を投入する場合は納税者の皆さんにキチンと説明責任が果たせるようにすべきと考えます」などとして山口教授を猛攻撃。さらに、ジェンダー学の専門家である牟田和恵・大阪大学教授にも「ねつ造はダメです。慰安婦問題は女性の人権問題ではありません」「国益に反する研究は自費でお願いいたします。学問の自由は大事ですが、我々の税金を反日活動に使われることに納得いかない」などと攻撃の矢を放ったのです(その後、2019年2月に牟田教授らは損害賠償とツイッターへの謝罪文掲載を求め杉田議員を提訴し、現在、係争中)。

上記のツイートの文言にもあるように、杉田議員は山口教授や牟田教授の研究は「反日」だとしました。山口教授の場合は、政治学者として安倍政権のさまざまな問題点を指摘したから、牟田教授の場合は、ジェンダー学者として従軍慰安婦の問題を研究していたから、というのが「反日」の理由です。つまり、現時点の日本、さらには過去にさかのぼっての日本に何か問題があると指摘すると、それが「反日」ということになるのでしょう。逆に考えれば、「日本は過去からいまにいたるまで、ずっとすごい!一度も間違ったことはなかった!」と言い続ければ、「反日ではない」のです。そして、日本の過去の無謬性を主張するには、当然、太平洋戦争における日本の加害性(侵略、虐殺、性暴力など)を否認しなければならないわけですから、歴史修正を行わければなりません。また、現在もその事実を指摘する国、たとえば韓国に対しては激しい態度でそれに抗し、「反日的な民族だ」などレイシズム(民族、人種主義)に基づいた差別扇動(ヘイト)に傾いていくわけです。

そういう意味でも、あのときのいわゆる“科研費叩き”とヘイトは深くつながっていました。実際に、ヘイトデモの常連参加者が、科研費の業務に携わる日本学術振興会に抗議に押しかける、といったこともありました。

また、この“科研費叩き”ではもうひとつ、鍵になったフレーズがあります。それは「公金つまり私たちの血税が使われている」ということです。冒頭にも記したように憲法では「学問の自由」がうたわれており、当然、公金から支出される研究費も学者の良心に従って自由に研究に使ってよいはずです。もちろん、その用途や収支報告などには厳しすぎるくらい厳しいルールがあり、私服を肥やしたり企業の儲けにしたりはまずできない仕組みになっています。とはいえ、研究の内容に関しては自由が保障されている、というのが学者たちにとってのこれまでの常識でした。

ところが、杉田議員から「公金を使って“反日”研究をすることは許されない」という声が上がると、一般の市民の中にも「たしかに。自分の血税は国益にかなう研究に使ってほしい」と思う人が出てきました。そこから先は、いくら「憲法で学問の自由が」と主張しても、「だとしたら自費でやればいい」の押し問答になります。

そして2019年、これとほとんど同じ構造のできごとが起きました。

それが国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画展のひとつ、「表現の不自由展・その後」への攻撃と一時的な閉鎖です。この問題については芸術監督を務めた津田大介氏が毎日新聞のインタビューでくわしく振り返っていますから、ぜひお読みください。

これまで公的な場所で展示できなかった作品を集めた企画展なのですから、それぞれの作品に賛否両論があるのは当然です。それを含めて「なぜこの作品の展示が過去に拒まれたのか」を考えるための、この手の国際芸術祭でしか実現できない良企画だったと実際に鑑賞した私は思います。ところが、まずそこに展示された韓国人作家の「平和の少女像」、次いでほかのいくつかの作品を「反日」だとして、「展示をやめろ」という猛烈な抗議や中には脅迫までが、芸術祭の事務局に寄せられたのです。同展の展示室は8月1日の芸術祭開幕からわずか3日で閉鎖に追い込まれましたが、芸術祭実行委会長の大村秀章・愛知県知事は、10月14日の閉幕まであと1週間となった同月8日午後から企画展の再開を決定。抽選による整理券方式など厳密な安全対策が講じられた中での再開でしたが、特段、大きな混乱や問題も起きず、同芸術祭は過去最大の入場者数を記録して無事にフィナーレを迎えました。

しかし驚くことに、その前、9月26日、文化庁は同芸術祭に交付する予定だった補助金約7800万円全額を交付しない、との発表を行ったのです。不交付の理由としては、「会場の安全確保や円滑な運営をするために重要な内容があったのに、申告なく進めたことを問題視した」といったごく簡単な文章が同庁のホームページで公表されただけでした。それに対して菅義偉官房長官(当時)は「事実関係を確認、精査した上で適切に対応したい」と政権もこの決定を容認しているような発言を行い、ツイッターなどでは自民党議員らが「当然のこと」と文化庁の決定を全面的に評価しました。

もちろんここでもキーフレーズになったのは、「反日的な作品に公金を使うな」です。そこで言われる「反日」とは、従軍慰安婦をモチーフにしたとされる「平和の少女像」など日本の過去から現在にわたるまでの「無謬性のファンタジー」を損なうようなものを指します。そして当然、その考えは「従軍慰安婦なんてウソだ。それをあったとする韓国人はウソつきだ」という差別扇動(ヘイト)につながります。先の科研費の問題と同じように、「あいちトリエンナーレ2019」の主会場や名古屋駅周辺では、これまで排外主義を掲げてきた団体が、何度も「こんな展示を許すな」と韓国へのヘイトスピーチを交えた街宣活動を行いました(私も名古屋でその場に居合わせたことがあります)。

先の「学問の自由」と同様に、「表現の自由」も憲法で定められている重要な自由権です。それを侵害してでも「反日」に公金を使うな、そこからヘイトスピーチに踏み出してもかまわない、という流れが、政権や政治家たちによってすっかりでき上がってしまったのです。

その後、今年になって文化庁は補助金を一部、減額して支給する方針に転じました。一時は次の開催も危ぶまれた「あいちトリエンナーレ」ですが、名称を変更しながらも2022年にも開催の方向で準備が進んでいると聞きます。

そこでやや安堵していたところ、コロナ禍に多くの人が苦しんでいたこの夏、また新たな問題が勃発しました。美容整形外科医としてテレビ出演も多い高須克弥医師が会長、「表現の不自由展・その後」の再開に反対して名古屋の排外主義団体・愛国倶楽部のメンバーなどとともに座り込みまでした河村たかし・名古屋市長が応援団長となって、大村秀章・愛知県知事のリコール運動が始まることになったのです。署名期間は8月25日から2ヶ月間。

先述したように大村知事は、「あいちトリエンナーレ」の実行委員長です。しかし、芸術祭の企画や作品のキュレーションを行ったのは芸術監督の津田大介氏と企画委員の美術や演劇などの専門家たちであり、大村知事は「表現の自由」を重んじて行政の長としてその内容に介入しない、という原則を貫いたにすぎません。「表現の不自由展・その後」が休止期間を経て再開される際にも、「安心を確保する観点から中止したが、実行することが本来の姿だ」と述べるにとどまりました。同展の作品に対してもしかすると個人的には思うところもあったかもしれませんが、「良い」「良くない」といった評価を行うことはありませんでした。

ただ、ここからは私の勝手な推測になるのですが、同芸術祭が始まってから事務局などに寄せられる凄まじいヘイトスピーチを交えた抗議に、知事はいまの日本社会で蔓延する差別のひどさに気づき、「これに屈してはならない」と心を決めたのではないでしょうか。

たとえば今年になって新型コロナウイルスの感染拡大が起きる中、大村知事は次のようなツイートを行っています。

私は、このツイートに涙が出るほど感動しました。クルーズ船にはさまざまな国の人が乗船しており、当然、コロナウイルス感染症の発症者には中国人、韓国人もいたでしょう。その人たちの治療を引き受けただけで「追い返せ」と電話してくる、というのは言語道断なのですが、いまの日本では、それに対してはっきり「負けません」と言える知事クラスの首長は、ほかにはいません。ここまで繰り返してきたように、ここ数年で――安倍政権の7年8カ月と言ってもよいでしょう――「反日は叩け」「韓国、中国ヘイトは当然」という雰囲気が一般の人だけではなく、政治家や行政、もっといえば政権にまで広く蔓延しており、こんな人道主義的にあたりまえのことでさえ、口にしにくい社会になってしまっているのです。

「ヘイトが常識、反ヘイトは反日」、それが安倍政権が成し遂げた最大の“実績”ーーもちろん悪い意味でのーーだと私は考えています。

その大村知事に対して、地方自治法で定められた直接請求制度で退職を要求しようとする。本当に考えられないことです。リコールが成立するには86万5千筆もの署名が必要とのことで、これはどう考えても実現不可能でしょう。だから、「どうせ失敗するんだから無視しとけばよい」という声も多く聞かれたのは事実です。しかし私は、いくらリコールは成功しないとしても、この「ヘイトが常識、反ヘイトは反日」の流れを黙って見ているわけにはいかない、と思いました。直接請求制度じたいは住民の権利ですから無理やり止めるわけにはいきませんが、そこで事実ではないこと、ヘイトにつながる発言などがあれば、すかさずそれを指摘して批判しようと考えました。

ここでもやはり、「公金」という隠れみのが使われています。「リコール運動の会」が問題のひとつとする作品に、昭和天皇のモチーフが使用されている「遠近を抱えて partⅡ」があるのですが、これに関しては作者の意図とはまったくかけ離れた解釈がされるなど数々の誤りが平然と語られています。それを指摘すると、会の人たちは判で押したようにこう反論します。

「この作品がどういう意図かは問題ではない。ただ誤解を招くような作品を公金で展示するのが問題なのだ。私費なら文句は言わない。」

何度も繰り返すように、「学問の自由」「表現の自由」は憲法で定められた自由権であり、たとえ公的な科学研究費や芸術祭のための公的な予算を使うものであっても、原則として政治家や行政がそこに介入することがあってはなりません。もちろん、法律に著しく抵触したり危険を伴ったりする研究や展示の場合は話は別ですが、科研費では同分野の学者の審査が、芸術祭では企画委員会があるので、それはほぼ未然に防げるはずです。

もちろん、世界の国の中には「国益にならない研究、芸術にいっさい公金は出さない」というところもあるのかもしれませんが、それら国の学問や芸術の水準はどうでしょうか。もし日本がそんな道を選択したら、あっという間に学術的、文化的二流国に没落することはたしかです。

県知事リコール運動の署名期間は10月25日までですが(県内の一部地域では市長選などの関係で12月まで)、高須医師や河村市長とともに、反差別の活動をしている人にとってはおなじみの、中京圏さらには全国から集まったヘイトデモの常連たちがリコール運動をしています。これまで新大久保や川崎などの在日集住地区で韓国人や在日コリアンにヘイトスピーチを投げかけてきた人たちが、ボランティアの市民らと並んで知事リコールの署名を呼びかける姿は悪夢のようなおぞましさです。これを黙って見ていることは、私にはとてもできません。

これまでもいろいろなところで書いてきましたが、私は民族主義や人種主義に基づく差別扇動に、断固として反対しています。またそれと裏表の関係にある国粋主義にも強い警戒の念を持っています。

それは、現場の精神科医として「差別は人の心を殺す」という実例を見てきたから、そして医学の歴史を振り返る中で、ナチス政権下で差別主義にいつの間にか憑りつかれた精神科医たちが、あろうことか自分たちが担当していた精神障がいの患者さんたちを一説には20万人もガス室に送り、虐殺したという「T-4作戦」のことを知ったからです。「〇〇人ってウソつきなんでしょ」「××民族は日本から出て行ってほしい」などと、いまの日本の流れに乗って軽い気持ちで口にしていると、ハッと気づいたときには、ナチスのような「民族浄化」や「民族虐殺」も正しいと思って手を貸している――人間というのは、そんな愚かなことをこれまで何度も繰り返してきた生きものであることを、私たちは決して忘れるべきではありません。

長々と書いてきましたが、今回の日本学術会議候補の任命拒否は、ヘイトの要素こそ現時点では希薄なようですが、「公金で反日研究をするのは許せない」というここまで書いてきた流れとそのままつながるものです。ネットでは「拒否された〇〇教授は日本人ではない」とするヘイトデマが早くも出てきており、今後、「反日、公金、ヘイト」の三題噺となっていくのでしょう。

この流れを断ち切るためにも、私たちはやはり、レイシズムやヘイトにつながっていると思われるものは、たとえ問題の規模は小さくてもきちんと批判し、止めておくべきではないでしょうか。私はそう考えて、愛知県知事リコール運動が始まった8月25日から、さまざまな観点から批判的な意見を述べています。すると9月1日に、高須医師から「リコール運動を妨害した」として刑事告発されました。起訴されるのか不起訴になるのか、いったい捜査が始まっているのかどうかも、現時点では検察からの呼び出しもないのでまったくわかりません。ただ私は、こうして言論でその問題を指摘し、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」により違法とされるヘイトスピーチが運動が展開される中で出ないかをウォッチすることが「リコール運動の妨害」だとは、思っていません。

日本学術会議の任命拒否の問題は社会的に広がりを見せており、今後、「公権力がおかしなことになっている」と多くの人が気づく可能性があります。政権を擁護する人は、ここでも「公金で反日学者に活動をさせるな」と言うでしょうが、安倍政権が終わりを告げたいまも、そのフレーズはまだ通用するでしょうか。私としては、政権が変わったいまこそ、「憲法で保障されている学問の自由、表現の自由が守られないのはおかしい」「なんでも反日と言い、差別的な発想につなげるのは間違っている」と誰もがはっきりと大きな声で言えるチャンスが来たと考えています。私も自分なりに、社会的に弱い立場に追い込まれ傷ついた人に多く出会う精神科医として、「ヘイトを止めろ、憲法で定められた自由を守れ」と今後も声を上げていくつもりです。