悟りと魔境の狭間、それを認識する真摯さについて。

 永井均さんの「遺稿焼却問題」を読んでいます。何回読んでいるんだろう?この本がかなり好きみたいだ。毎回違ったところに興味を持って行かれるのだが、今回は小池龍之介さんに言及されている部分が気になりました。

 小池龍之介さんといえば、「考えない練習」という本で、なんともいえない表情でバスの中で揺られている書影が印象的でしたが、本自体は読んだ事がなく、どんな方なのかもよくわかっていませんでした。

 遺稿焼却問題では、小池龍之介さんがYoutubeに投稿された「懺悔」と言う動画を見て、敬意を深めたと言うことが書いてありました。

 今回はその動画が気になり、見てみることにしました。

 動画を見て、小池さんの真摯さに私は胸を打たれました。

 動画の要約を以下書いていきましょう。

・小池さんは瞑想の修行の末、「お前はブッタになる人間だから、そのための旅に出なさい」という天啓を受ける。その旅とは、宿も取らず野宿するような放浪の旅であった。
・しかし、旅の道中、自身がブッタになるなんて単なる誇大妄想に過ぎなかったと思うような、さまざまな辛い出来事に出会う。

具体的には
・性欲を克服したつもりが、連日淫夢を見て夢精してしまった。
・基本どんな苦痛も瞑想をすることで対処できていたが、旅の途中、腹の中に鉛のようなエネルギーを感じ、瞑想状態に入れず、苦しみから脱せない状態が続いた。
・瞑想もうまくいかない中、野宿する場所も見つけられず、深夜歩き通しになることもあった。
・浮浪者の格好をしたため、道ゆく人に最底辺の人間として扱われてしまった。
・そんな辛いことを経験している中、ふと涙が出てきてしまう瞬間もあった。

・以上のような旅の結果、自分は苦しみから全く解き放たれていないことを知り、解脱など自分には到底できないのだという思いに至った。
・これからは在野の人間に戻り、死なない程度に働きながら、個人的に瞑想を続けていくと決めた。
・また、悟ってもいないのに悟ったつもりになって人様に教えていたことを深く後悔し、そのことを懺悔し、もう人に教えることはしないと宣言した。そして、本も出さないことも宣言した。

 「私は悟りました」みたいな軽薄な宣言する動画は何本も見たことはありますが、一度悟ったと宣言して、それを撤回するような動画に僕は出会ったことはありません。私はそこに心打たれました。

 永井さんは、人に人生の真実を教えることについてまわる害悪について賛同され、真実を権威から引用する形で伝えるのは、そのような害悪から身を守るための方法論なのだという見解を示されていた。

 人生の真実を教えていると、あたかも自分が何か特別な存在になったかのように錯覚してしまうようです。それが誇大妄想になり、自身の世界を歪めてしまう。

 小池さんは自身の過去世を、ブッタの裏切りであるダイバダッタと知ったのだといいます。さらにそこに小池さんのストーリーが書き加えられていきます。ダイバダッタは実際には裏切り者ではなく、歴史の中で裏切り者に仕立て上げらてしまったのだというのです。そして今世で小池さんに生まれ変わり、ようやく解脱できるチャンスが巡ってきたのだと。
 このようなストーリーを本当に信じていたのだというのです。もちろん旅を終えた今では、そのような幻想は打ち砕かれたとおっしゃられていましたが。

 人様に真実を教えながら、尚且つ、上のような誇大妄想に陥らないというのは、なかなか難しいことなのでしょう。

 シモーヌ・ヴェイユの言葉で言えば、真空を保つこと、それを想像で埋めないこと、そのような節度が大事なのでしょう。

 仮に、人生の真の意味が独在性であるのなら、それは上のようなストーリーで装飾するべきでも、人に伝えるべきでもないはずです。
 べき論というか、事象内容がないのだから、伝達不可能といったところでしょうか。それを教えるとなると、どうしても事象内容化することを免れず、そうなると誇大妄想的な味付けをしてしまうことになるのでしょう。
 独在性は真の意味を有しながらも、その特別性を決して伝達できない。これを認識することが、魔境に落ち込まないための秘訣なのでしょう。

 もちろん、その伝達不能なものが何故か伝達可能であるという問題もあり、それが永井さんの問題であるのだが。
 

 

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