見出し画像

「世界の独在論的存在構造 哲学探究2」を読んで part6

第5章 <私>と<今>を<現実>から峻別する ~ 第5章の最後まで

要約開始

 ここで改めて、<私>や<今>がどんなものかを考えていきたいと思います。まず<私>や<今>は客観的世界をいくら観察しても、その存在が見出せません。つまり世界でまったく役割を果たしていないのです。このようなものを無寄与成分といいます。

 ここで各人の心だけに感じるもの(クオリア)を無寄与成分と混同しないことに注意です。クオリアは十分科学的研究もなされるようなものであり、客観的世界に十分寄与しています。

 <>の役割は端的な存在、現実性だという風に今まで議論されてきました。しかしそれだと、普通の寄与成分であるものにも<>をつけて現実性を表現することができることになります。<犬>とか<石>とかみたいに。この場合<>はどんな意味をあらわしているのでしょうか。いろんな可能世界を想像しているとき犬や石が存在しているのでしたら、「犬」や「石」と表現できるでしょう。その中でも現実に存在している犬や石に対して、<犬>や<石>と表現することで、現実性を強調することになります。

 しかし、上のことはある意味当たり前です。現実世界が存在しているなら、犬は現実に存在しています。<現実>なら<犬>も一緒についてきます。犬が現実しない世界も考えることはできますが、その時点で可能世界を考えているため、<>の出番はありません。これはほかの存在(私や今以外)にも当てはまることです。つまり、世界が<現実>なら諸存在は<存在>と表記できるのです。

 対して私と今だと話が違ってきます。その世界が現実であっても、<私>でない私がたくさん存在します。たくさんどころか、<私>以外は全員「私」です。先ほどの例では現実と諸存在の<>は一致していましたが、現実と私(並びに今)の場合、一致するというわけにはいきません。つまり<現実>と<私>・<今>の<>の成立条件が違うということです。だから<現実>と<私>・<今>は峻別する必要があるのです。

 そもそも私とは何でしょうか。どのようにして私を識別しているのでしょうか。「現実に何か(感覚・認識・運動能力など)があると感じている人物だ」といえるでしょう。この識別基準には二つの層が存在します。「何か」に当たる客観的世界に関係する成分、そして「現に~感じている」に当たる客観的世界に関係していない成分の二層です。

 以上のような識別基準の二重構造のため、<私>は客観的世界にあるものの総合である人物と必ずセットで存在していることになります。しかし客観的世界からはいくら探しても<私>は見つかりません。ですが逆に、<私>から出発すれば客観的世界を構成してそこに己を位置づけることが可能になります。伝統的には超越哲学がやろうとしていたことはこのことであったといえるはずです。ここに一方向性が表れています。

要約終了

  できるだけ議論が一直線になるように要約したので面白そうな論点をこぼしたので、ここでさらにその論点を羅列的に取り上げていきたいと思います。

 まずは<私>・<<私>>・「私」の関係です。ここでは上の私の識別基準をもとにこの関係について語っていきます。「現実に何かあると感じている人物」と言いましたが、これは「私」の識別基準です。これはどの私でも成り立つ基準になります。しかしその中に「現に~感じている」という要素があります。これは概念化された<私>、つまり<<私>>の成立条件です。「私」の識別基準の中に<<私>>が紛れてしまっていますが、それなしに「私」の識別基準は語りえないのです。前回<<私>>は<私>と<「私」の蝶番のような役割を果たしているのではといいましたが、これだとこの3つがそれぞれ独立の部品であるように見えます。しかし実情はもう少し複雑なのではないでしょうか。<私>は概念となって<<私>>に入り込み、<<私>>は基準となって「私」に入り込み、「私」は本来は独在的な<私>の中に入り込んでいます。ですから、<<私>>が二つの蝶番とはいいがたいような気がしてきました。

 次に「私ゾンビ問題」です。哲学的に言うとゾンビとは意識が存在しない人のことです。あなたの知人が転んで痛がったり、プレゼントをもらって喜んだり、失恋をして悲しんだりしていても、実際には何にも感じていないのではないかということです。ただ単に表面的に痛がったり喜んだり悲しんだりしているように見える行動をとっているだけなのだはということです。こういう「ゾンビ問題」は私にしか意識がないのではないかとか、自分以外の人は映画の俳優のようにただ演じているだけの存在なのではないかという不安を表現している、切実な問題であるとは思います。ただここで「別のゾンビ問題」を想定されています。それが「私ゾンビ問題」です。さきほどの私の識別基準で私を識別していない人を「私ゾンビ」と呼び、そういう存在があり得るかを考えるような問題です。仮にそのような「私ゾンビ」がいるとすると、どのように私を識別し得るのでしょうか。その人固有の性質によってでしょう。一番わかりやすいのは記憶ではないでしょうか。記憶というのはその人固有でほかの人とまったく一緒ということはないでしょうから。そういう意味では識別をするという点では申し分ない基準ではあると思います。しかし、私は今と一年後で違った記憶を所有して言うことになります。となると、私は同一性を保つことができないのではないでしょうか。どうしても同一性を担保するための不変の何かを想定しないと、私という同一性は考えられないのではないでしょうか。さらに現に感じるということがなかったら、現実の認識と過去の記憶の映像を区別することもできなくなってしまうのではないでしょうか。

 最後にウィトゲンシュタインの「いまだ不分明な声を発したくなる段階」の別解釈について。ウィトゲンシュタインが上のような段階について言及したのは、ほかのどれとも命名しがたい自分だけのクオリアが何度も起こるのだが、それを語れる私的言語が存在するのかという問題においてです。ウィトゲンシュタインはそのクオリアについて語ろうとするが、どうしても自分の表現したいものを表現することができないと考えます。そこが「いまだ不分明な声を発したくなる段階」だと言っているのです。たが、今までの文脈で行くと、ウィトゲンシュタインの扱っているクオリアはゼロ次内包とよばれるものです。他者には見えないものであるためにその存在が疑われているのですが、疑われるほどには存在しているものなのです。僕が不思議に思うのは、一般的に他人と共有していると思われている感覚も、独特な感覚の場合と同様に通じているのかということです。つまり共有された感覚も独特な感覚も通じているかという面では同じくらい不明瞭ということです。ここで「通じる」という言葉を使い分ける必要があると思います。「言葉の意味が通じる」ということと、「この感覚が通じる」ということです。前者の「言葉が通じる」という面で見れば、確かに共有された感覚と独特の感覚では違いがあります。しかし、「この感覚が通じる」という面では両者は差がないのではないでしょうか。また言葉が通じる・通じないはある種の程度問題であり、原理的に通じない感覚というものは存在しないのではないでしょうか。言葉が通じないのは、感じている人の観察眼がないのか、それともほかの人にはなかなか起こらないのか、というようなことであると思います。もし原理的に通じない感覚があるなら、それは感覚というカテゴリーでそもそもくくれるものなのでしょうか。話をここで永井さんの解釈に戻します。永井さんは<私>の存在について語る時にこそ、上の段階に到達しているのだと指摘しています。<私>とは客観的世界をどんなに調べても見つけられない無内包なものだと確認しました。客観的世界にいかなる痕跡も残さない。存在していないと疑うことすらできないほどに存在していないのです。しかしこのを感じている<私>は何よりも確実に存在する。この断絶を前にしたときにこそ、「いまだ不分明な声を発したくなる段階」に達したといえるのではないでしょうか。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?